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観/聴衆に伝わる「リアル」の在り処 ―映画「トロイ」に寄せて

評者:佐野光宜(京都大学)


 女神は、英雄アキレウスの怒りを歌わない。そこにいるのは、苦悩・葛藤する、人間アキレウスであった。そして、観る者を圧倒する、壮大なスケールである。

 よく知られているように、トロイアをめぐる物語は、ホメロス『イリアス』のみに歌われたのではなく、『オデュッセイア』やその他の叙事詩人による「叙事詩の環kyklos」なる作品群によって今に伝わる物語である。デイビッド・ベニオフの手になるこの脚本は、「ホメロス『イリアス』にインスピレーションを受けたinspired by Homer's Iliad」とエンドクレジットにあることから、必ずしも『イリアス』の世界のみに縛られるものではない(トロイアの陥落がラストであるので、いわゆる「トロイの木馬」が登場するし、メネラオスはパリスとの一騎打ちの際に、ヘクトルによって討ち取られてしまう。また、アエネアスもその後のローマ建国神話を匂わせるような登場の仕方をする)。したがって、『イリアス』を「原作」と呼ぶのは、まったく正確さを欠くこととなるし、『イリアス』と「トロイ」との間の異同をあげつらうことは、何ら意味を結ばない。では、これはトロイア戦争を描いた英雄叙事詩群の「翻案」であるとするほうが良かろうか。しかしながら、それもあまり的確ではないような気がする。むしろ、この映画「トロイ」も「叙事詩の環」の一端を担うものであると考えたほうが、面白いのではないだろうか。現代まで受け継がれた、「叙事詩の環」である。

 舞台になるのは、トロイアの浜辺(実際には、マルタ島とメキシコ領ロス・カボスで撮影が行われた。)。これは非常に狭い場所設定であり、この場をいかに表情豊かにスクリーンに描き出しうるかということが、この映画にとって、一つの生命線であったろう。この難題に見事に答え、場面に大きな幅を持たせているのは、光の効果である。それは、照りつける陽光であり、また、暁の空。そして、夜の闇と星の瞬き。戦いのあとには、死者を包む火葬の炎。それぞれの光と、あるいは光の不在としての闇が、その場面を非常に効果的に描き出す。ピーター・ジャクソン監督による「ロード・オブ・ザ・リング」のような、大胆なCG演出を使わないことにこだわったスタッフとしては、面目躍如たるものがある。

  「叙事詩の環」の一つである、と先ほど述べたが、では、現代の叙事詩は、トロイア戦争をどう描き出したのか。

 ホメロスの叙事詩にインスピレーションを受けた脚本は、トロイア戦争に、「愛」のために戦う人びとのドラマという衣を着せた。愛する女性のため、兄弟のため、父のため、母のため、子のため、祖国のために人びとは戦うのである。そして、その名が「永遠」に記憶されることを求めて戦う人間たち。そこには、善/悪や白/黒といった単純な二元的対立の構造などない、と語るのはウォルフガング・ペーターゼン監督。誰もが、自分の行動は正当であると信じているのであり、それが現実なのだから、と。だがもちろん、スクリーンの中では、アガメムノンが権力欲に満ち満ちた俗物として描かれるし、守るべき人、打ち立てるべき勲のために命を賭すアキレウスやヘクトルとは扱いが異なる。ギリシア対トロイアという対立軸や一人の悪玉を皆で打ち倒すという勧善懲悪の物語ではないにせよ、両者の間にある差異は、監督や脚本家の善・悪・正義といったものについての価値判断が垣間見える。

 ホメロスらによる叙事詩には、人間たちの対立と同様に、あるいはそれ以上に、神々の争いが描かれた。しかし、映画「トロイ」には、神々は不在である。ときおりその名が言及されたり、祈りを捧げられたりすることはあっても、むしろそうすることが浅はかであるかのように映る。不在の理由について、監督はこのように言う。それが、自分たちの目指すリアリズムにとって不適当であると考えたためだからだ、と。神々が、人間世界の物事に介入してくるのは現代にとって「リアル」ではないのだ。古代の聴衆たちにとっても、もちろん神々の実在などは虚構に思われたであろうが、英雄たちの存在は疑われなかった。そして、なによりも神々でさえ逆らえぬ、運命というものの存在を感じ取ったであろう。そしてそこから、実際的な教訓を汲み取ろうとした。それが、古代の聴衆たちにとっての「リアル」であった。では、現代の観衆に伝わった「リアル」とは何なのか。二つの「リアル」の間にはどのような違いがあるのだろうか。古代史を研究する者にとって、そして、そこから翻って現代の問題を捉えようとする者にとって、そこには考察すべき問題が潜んでいるようである。 

 どうも考えるべき問題のきっかけを指摘するばかりになってしまった。しかし、これらについては一朝一夕に答えが見つかるものではないし、これから私が古代史を研究する中で、考えつづけていくということで諒とされたい。

 せめて最後に、私自身が受け取った「リアル」について触れることで、評者としての務めを果たさねばなるまい。今まさに陥落せんとするトロイアから脱出する人びとの中に、アエネアスとその父らしき人物があらわれる。パリスは彼に、「トロイの剣」なるものを託すのだが、それは、トロイアの王家に代々受け継がれてきたもの、という設定のようだ。パリスはそれを託すことで、アエネアスにトロイアの未来を託したのである。しかし、それは、トロイアにとどまらず、私たちが生きる今、そして、未来でもある。観衆としての私たちは、こう自問せずにはいられないだろう。その剣に託された未来は、平和・希望の未来となったのか、それとも、復讐の連鎖が続く未来となったのか、と。いまに蘇った英雄叙事詩は、私たちにこう問いかけるのだ。答えは人さまざまであるかもしれない。アキレウスなら、いまだ人間たちは復讐の連鎖を断ち切る術を見つけられずにいる、と冷笑するか。ヘクトルならば、まだ希望を捨てるな、生きよと励ますだろう(そういえば、未来の象徴としての赤子は、ヘクトルの子供としてのみあらわれていた)。私には、現代がアキレウスの冷笑の中にあるような気がしてならない。

 いずれにせよ、日本人にとって、(おそらく)読まれざる古典であった『イリアス』は、この映画「トロイ」の興行的な成功を見る限り、いくらか身近なものとなったのではないだろうか。それは、古代史研究者にとって、喜ぶべきであろうし、私は、新たな解釈の登場を歓迎したい。なぜなら、古典は、新たな解釈を失ったとき、古典であるという力を失ってしまうのだから。




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