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マリア・ブロシウスとスピヴァック―古代史とサバルタン、女性

足立 広明


会員の足立です。毎回若い皆さんの感性の溢れる文章を読ませていただき、労せずして知的刺激を得ることができ、大変感謝しています。映画『トロイ』評や就職活動での意外なローマ史の登場の仕方大変興味深いものでした。今回阿部拓児さんが寄せられた、マリア・ブロシウスの著書『古代ペルシャの女性たち』《Maria Brosius, Women in Ancient Persia (559-331 BC),(Oxford Classical Monographs, Oxford University Press, Oxford, 1996, rpt. 2002, xx+258頁)》に関する書評も、大変興深いものであり、専門外ながら購入も考えたくなる良書と拝見しました。オリエントと女性という二重の表象によって西洋古代史のなかでは周辺化された存在から歴史を見直すというもので、同書で問題提起されている事柄、方法などは大いに参考になりました。

ただ、最後の辛口の引用文に基づく批評についてはよく理解できませんでした。「サバルタンは話さない」「グローバル・ランドリー・リストに恭しく女性という項目を記載してみたところで」何の価値もないということを他ならぬ「サバルタン」研究の第一人者スピヴァックが言っていると短く引用された後、本書の女性史への態度が楽観的に過ぎるとの結論がバシッと書き添えられて終わっていますが、スピヴァックはどのような文脈でそれらの言葉を言っているのでしょうか。またこの言葉そのものの妥当性は問題とならないのでしょうか。字面だけを見ると本研究はもちろん、サバルタン・スタディーズや女性史研究全体の価値を否定するような激しい文言で、それまでの内容紹介における著者の研究手法への高い評価と比較して、少し唐突な気もするのです。あるいは、若い優秀なみなさんであればスピヴァックのことは常識化していて、これだけの文言で十分なのかもしれませんが、もう少し古代史研究者全般にも分かるように説明を補足していただければありがたい気がします。

書評読了後、さっそく引用されておられた『サバルタンは語ることができるか』を書店で見つけて買ってきました。薄いけれども大変に難解な本で、しかも、これ以外にも現在続々と翻訳が出版されつつあるようで、オリエンタリズム批判ではサイードと天下を二分する実力の持ち主であるとか。そうなると、サイード亡き現在では文字通り最高峰ということになるのでしょうか。同書の著者、ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァックはインド出身で女性という、それだけで現代世界では二重にサバルタン的存在ですが、一方、バラモン階級出身で米国において著作活動を行なう点では故国のサバルタンである多くの下層の人々とは決定的に異なった「知識人」階層に属すると言います。

彼女の研究はこのような自らのアイデンティティの持つ問題性を現代世界において探ることにあるようで、デリダを英語圏に紹介したことで名前が知られていますが、単に哲学的認識論に終始することなく、そのデリダ的な批判方法をポスト・コロニアリズムとフェミニズムを横断する形で応用しつつ、現代世界を読み解くのだとされています。本書でもインドで夫に殉死する女性の事例を中心的に取り上げ、殉死を論ずる知識人は、それを糾弾するにせよ弁護するにせよ、いずれも彼らの視点で語る「主体」を作り上げているだけで、サバルタンとしての女性の声はいつも聞いてもらえないままでいるのだということが浮き彫りにされていると言えるのでしょう。忙しくて、ぱらぱら頁を繰った程度ですが、この著者についてはあらましこのように言われていると理解しました。

さて、そうすると、阿部さんの引用された文は、「語ることのできない」サバルタンのほうにむしろ強く心を寄せ、女性についても政治上の作意で作り上げられた被抑圧者のリストに加えられただけでは本当の問題解決にはならないのだということを表明しているわけで、むしろその本当の解放の道筋はどこにあるのかをさらに希求しようとする文章であるように見受けられ、ただ冷笑的にその価値を貶めているどころか、その逆を求めているということになるかと思われました。

問題の箇所は、本書全体の最後に、少しスペースを空けて、とくに他との関連性を示唆することなく記載された結びの言葉です。しかも、当のスピヴァック自身この言葉は自分たちインド女性が語ろうとしたことが失敗に終わったことからの絶望感からきたもので、「得策でなかった」と撤回してしまったと本書訳書第1版第2刷後記(P.147)に書かれています(さらにその続きは『現代思想』1999年7月号スピヴァック特集号にありとも)。さすがにこれ以上は追跡する余裕もないのですが、いずれにしても本人自身この部分だけが切り取られて全く違ったふうに借用されかねない戦略上のミスを認めているわけです。だとするなら、そのようないわく付きの言葉をあえて引用してまでも阿部さんが古代史の書評でどのようなことを語ろうとされているのか、やはりいくらか言葉を重ねて説明していただいたほうが、誤解が少なくなると思うのです。ちなみに、私はブロシウスのことは紹介文を見る限りでしか知りませんが、ギリシャ人著作家の史料を大胆に読みかえた上で堅実な考古学史料に基づく実証も重ねて議論を進めているようで、スピヴァックの激しい言葉を引用して批判する対象ではないような気もします。

 わずかな引用文に大変なこだわりを示してしまいましたが、わが国ではまだまだ社会史や女性史については、一般化してきてはいるとはいうものの、驚くほど否定的な「質問」や「感想」が述べられた後、何故かとくに反論もなく、皆が笑って終わるような場面も少なくないような気がするのです。大御所が一言「最近のアナールは駄目だね」などと言うと、たちまちその部分だけを切り取ってきて鐘や太鼓で喧伝して歩く人もいるようですし。阿部さんの文章に関しては、最初に書いたようにいろいろな背景があるように思えます。スピヴァックについては、今後の研究視点育成の上でよい勉強をさせていただいたと思っています。書店にいると、オリエンタリズム批判を参考にしながらこれまで研究を進めてこられた阿部さんの過去の読書遍歴がなんとなく想像されました。しかし、それであればこそ、それらの背景を小出しにでも説明されたほうがよいと思えるのです。




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