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パピュルスをこれから学ぶ人へ
紹介:P.W.Pestman, The New Papyrological Primer, (E.J.Brill, Leiden, 1990, xxii+315頁)
評者:中道嵩行(京都大学)


 ギリシア語の初級教育を終えた研究者の卵が、最初に独力で読んでみようと志すのは偉大なる古典作家たちの原典だろうか。なかには、パピュルスに興味を抱く方もいるだろう。アリストテレスの『アテナイ人の国制』やサッフォーの詩をはじめとした文学作品から、古代を生きた無名の人々の手による文書史料に至るまで、パピュルスは幅広い魅力に富んでいる。

 では実際に読むとなるとどうであろうか。日本で最も触れやすいパピュルス史料といえば、オクシュリュンコス出土のパピュルス群刊行史料であるが、実際目の当たりにすると70巻に迫ろうかというその威容に圧倒されてしまう。なんとか勇気を奮い起こして手にとって開いてみよう。そこには欠損を示す…と多種多様な校訂記号が溢れかえっている。そして、なによりも量が膨大すぎてどれを読めば良いのかわからない。この時点で大半の初学者は投げ出してしまうだろう。このようにして、歴史研究者がパピュルス史料を積極的に用いることを妨げてきた「壁」の存在が、研究者の卵の心に植えつけられてしまうのである。

 パピュルスを自在に読みこなす先達が周囲にいるという幸運にでも恵まれない限りは、第一歩で大きく躓いてしまう現状は日本の学界にとっても大きな損失である。そこで、この場を借りて、まだパピュルスの初学者として苦闘する評者が、同じくこれからパピュルスを学びたいと言う初学者に薦めたいのが本書The New Papyrological Primerである。

 本書はデイヴィッドとファン・フローニンゲンが1940年に著したパピュルス学の初級教科書の第五版にあたり、ペストマンが全面改訂を行ったものである。その最大の特色は豊富な史料の存在にある。最も著名なパピュルス学の概説書E.G.Turner, Greek Papyri: An Introduction, (Clarendon Press, Oxford, 1968, ix+220頁)は、読み物として非常に面白く、背景知識に関して多くの情報を得ることができるのだが、実際の史料の読み方が表立って扱われることがないために、初学者がパピュルス読解の際に直面する問題を解決する助けには余りならない。それに対して、本書はごく基本的な知識を紹介するイントロダクションと81のテキストから構成されており、史料に基づいた、より実践的側面が重視されている。

 イントロダクションはパピュルスの製法やグレコ・ローマン期エジプトの歴史の総覧から始まるが、それらは軽く触れられるにとどまり、大きな比重を占めるのはパピュルス読解の実際である。ここではパピュルス史料を読む上で障害となるいくつかの事項に焦点が当てられる。校訂記号については、単に()、{}、[]、【】などの解説にとどまらず、実例を用いて校訂の妥当性への注意が喚起される。想定読者は初学者であっても、史料批判への高い意識が求められているのである。エジプトの宗教や命名法の簡単な解説もなされているが、背景知識として最も問題となる暦法に関しては詳しく解説されており、参考になる。

 本書の大部分を占める81の史料はどれもある程度まとまった形で残存していて読みやすいものが選ばれている。配列は年代順となっているが、テーマ別の索引の方が実際には役立つことだろう。史料はカラカラ帝のアントニヌス勅令など著名なもののほか、行政文書や取引契約、私的な手紙、変わったものとしては星図や魔術文書など多岐に渡っており、パピュルスの持つ様々な世界を提示して興味関心を刺激する作りとなっている。英語の対訳が載っていないという点が初学者には若干の敷居の高さを感じさせるかもしれないが、これは校訂者を過信すべきでないという編集方針から考えれば妥当な判断と言えるだろう。解釈が難しい部分も丁寧な注釈や巻末の用語集で十分補うことが可能である。それぞれの史料には解説とどの文書群に所属しているかが記されているため、興味を抱いたテーマへの足がかりとしての役割も果たしてくれることだろう。
 その他にも史料や関連雑誌の略号表、最新の校訂の所在など初学者の躓く点に十分な配慮がなされている。

 本書はあくまで第一歩を躓かないように踏み出すためのものであり、この一冊を読めばパピュルスを読めるようになるという性質のものではない。そこで最後に、評者が参考にした幾つかの著作を紹介しておく。パピュルス学そのものに興味を持ったならば、上述のターナーの著作が参考になる。J.Rowlandson(ed.), Women and Society in Greek and Roman Egypt; A Sourcebook, (Cambridge University Press, Cambridge, 1998, xviii+406頁) は当時の社会、特に女性に関わる、パピュルスを英訳した史料集であり、パピュルスの描き出す社会に触れることができる。また、重要なパピュルスの幾つかはLoeb Classical LibraryシリーズのSelect Papyri I-III にも所収されており、英語対訳を参照しながら読むことができる。もちろん、本書の解説などから興味を持った個別の刊行パピュルス史料と格闘するのも必要になるだろう。様々な史料に触れてパピュルスの世界を堪能して頂きたい。




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