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古代ユダヤ史研究の発展を求めて
紹介文:J.Pastor, Land and Economy in Ancient Palestine,(Routledge, London/New York, 1997, Pp. xv+281.)
紹介者:中野 健(京都大学)


 

 ユダヤ史に関心を持つ紹介者は、西洋史におけるユダヤ人とユダヤ教の意義について研究する目的で、2年前から西洋古代史を専攻している。数多くいる西洋古代史研究者の中で、紹介者のように古代ユダヤ史を専門とする研究者はごくわずかであろう。しかしながら、ユダヤ人のアイデンティティそのものともいえるユダヤ教の成立過程研究、あるいはキリスト教前史研究として、古代ユダヤ史研究は極めて重要である。それはまた、ギリシア・ローマ史における地域研究の一つとしても位置づけられるであろう。

 本来ならその重要性に見合った活発な議論がなされるべき古代ユダヤ史研究だが、この分野の研究者は、それを阻む大きなハンデを背負っている。それは、史料として扱えるものが他の分野に比べて圧倒的に不足しているということである。キリスト教と決別し、ユダヤ教の発展に努めた1世紀以降は、紀元前に比べると、教義に関する史料は大幅に増加する。ところが歴史学という観点から考察した場合、それらの史料から信頼できる情報を入手することは、逆に非常に困難となってしまう。紹介者を含めた古代ユダヤ史初学者の進む先には、この大きな壁がたちふさがっているのである。日本の学界においても、ユダヤ教の研究は発展しているにもかかわらず、古代ユダヤ史研究が歴史学の中心的課題の一つと目されてこなかったことにも、この史料不足の問題が大きく関わっているのであろう。

 このように史料の面では大きな制約を受けながらも、歴史学における社会経済史研究の進展に従って、古代ユダヤ史研究においても、苛酷な税制、土地所有権の変遷、経済危機などの経済問題に巻き込まれた人々の日常生活の実態、心のあり方に注目して、それまでの歴史像を捉え直そうとする動きが見られるようになった。紹介者が、古代ユダヤ史あるいは古代パレスチナ社会に関心を持たれた方に、まず一読を薦めたい本書Land and Economy in Ancient Palestineは、こうした新しい動きの中で生まれた著作である。本書の著者Jack Pastorは、イスラエルのハイファ大学に勤務し、第2神殿時代史(キュロス2世によるバビロン捕囚の解放から第2次ユダヤ戦争の終わりまで)を専門とする学者である。1997年に出版された本書においては、第2神殿時代のユダヤ人とパレスチナの歴史を土地とその所有権に注目して考察している。以下、その内容を要約し、簡単にではあるがコメントを付したい。目次は次の通りである。

1. INTRODUCTION
2. THE PERSIAN PERIOD
3. THE EARLY HELLENISTIC PERIOD
4. THE LATE HELLENISTIC PERIOD
5. THE HASMONEANS PERIOD
6. THE EARLY ROMAN PERIOD
7. THE HERODIAN PERIOD
8. JUDEA UNDER DIRECT ROMAN RULE
9. EPILOGUE: FROM YAVNEH TO BAR KOKHBA
10. CONCLUSIONS

 序章において、土地とその所有権にまつわる問題(税制の変化、凶作への対応、負債の処理など)が古代パレスチナとユダヤ人社会に与えた影響の重要性が強調され、その問題と食物、飢饉、人口などの諸問題とが、いかに関連しているかについて言及される。続く各章において具体的な検証がなされる。ペルシア時代に生じた食物および負債に関わる経済危機の分析から始まり、ヘレニズム国家が導入した新しい土地制度がどのようにパレスチナに適応されたかについての検証へと進む。その際、プトレマイオス朝からセレウコス朝へとパレスチナの支配者が移ったことの背景として、土地所有権を巡るユダヤ人エリートの争いと、民衆の統治者に対する意識の変化が重要視され、著者の考察の対象は、深く一般ユダヤ民衆の心情にまで及ぶのである。

 本書の独創性が最もよく表れているのが、続くマカベア戦争(前167-142年)についての考察においてである。マカベア戦争とは、シリア王アンティオコス4世のユダヤ人迫害に対し、マカベア家を指導者とするユダヤ民衆が蜂起し、政治、宗教の自由を勝ち取った戦争である。そのマカベア戦争を、民衆の宗教的情熱のみを原動力とした戦争ではなく、経済問題と民衆の心情が深く絡み合った戦争として捉えようとする著者の姿勢は、まさしく古代ユダヤ史研究の新しい動きの中で生まれたものである。前161年のユダの死とその翌年の大飢饉によって、マカベア軍の士気は極端に低下する。そして、多くの兵士がシリア側に寝返ることになるのだが、従来の研究者たちは、その理由を充分に解明したとは言えなかった。著者は、この理由として、シリア政府とマカベア家の食糧管理の違いを挙げる。兵士たちは、より安定して食糧が支給されるシリア側につくことを望んだのだと主張するのである。マカベア戦争後に成立したハスモン王朝の繁栄についても、土地とその所有権に関する問題を中心として、充分目配りがなされている。ローマ時代については、ヘロデ王の土地政策は決して革新的ではなく、ハスモン朝から受け継がれたものであるという立場に立つ。旧約・新約聖書、ヨセフスの著作、ラビ文献などの既知の史料に依拠しながらも、それらを独自の視点から検討し直すことで、このように著者は多くの独創的かつ説得的な議論を展開した。古代ユダヤ史研究の史料的な制約を乗り越える方策の一つを、ここに見出すこともできるのではないだろうか。

 前述の通り、本書の独創性は、土地とその所有権にまつわる問題を軸として古代パレスチナ社会を考察した点にある。そのため経済史的考察に偏ったモノリシックなアプローチであると批判する向きもあろう。しかし著者の名誉のために付言すれば、著者は、古代パレスチナ社会の全てが土地とその所有権に関する問題のみでは説明されえないことを充分理解している。著者の目指すところは、狭義の経済史ではなく、経済問題を切り口として社会全体を見渡す視点なのである。

 著者のこのような立場が理解された上で、新しい視点で古代パレスチナ社会を考察する研究書として本書が読まれるならば、紹介者としても幸いである。





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