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三世紀ローマ帝国の法学と法学者に関する雑感

佐々木 健(京都大学)

 『ローマ皇帝群像』(以下、本書)第三分冊冒頭を飾るアレクサンデル・セウェルス帝に仕えた法学者ウルピアヌスは、時代を下って六世紀、ユスティニアヌス帝による法典編纂の一環、『学説彙纂Digesta』中の約三分の一を彼の法文が占めることで知られる。多作で、それ故に独創性のない「編集者」とも評される彼は、当時から見た先行研究、一世紀のラベオと大ネルウァによる或る論争に言及し、後者に軍配を挙げた。公道に水を氾濫させることになる工事が禁じられるべきか否かについて、ラベオは工事が水を公道に浸入させるためのものではないとして消極説を、大ネルウァは道路を劣化させる水が出てくる土地を工事者が有することを根拠に積極説を、それぞれ採用していた。優れた皇帝官吏としてのウルピアヌスは、告示された禁止行為に該当するか否かを事例を挙げて解説する中でこの論争に触れ、結論のみを記すに留まるが、そうした判断の背景に、共同利用を重視する姿勢を見出すことは容易であろう。

 官吏たるもの、自らを引き立ててもらえるだけのコネと、それを基に得た職責を全うすることで示される事務処理能力の双方を、車の両輪として兼ね備えている筈で、遙か百年以上以前の立法とは言え、これに対する少なくとも当時における為政者の意に沿う見解を用意することこそ、本務の一部と言えなくもない。

 私は、古代ローマ法研究の緒に就いた若輩に過ぎず、かつ既に本書第一・第二分冊に付された月報44と62において『ヒストリア・アウグスタ』の史料的価値と特質、更には帝権の構造的宿命としての軍人皇帝時代到来が論じられているので、ここでは三世紀における法学(者)の一端に関して愚見を披瀝させて頂きたい。

 伝統的に古代ローマ法学は帝政前期に最高度に達したとされ、従ってその中でも主として軍人皇帝時代以前が法学の「古典期」と位置付けられてきた。ウルピアヌスら、三世紀前半頃の法学者が従来の素材を収録・加工し集大成したと評されるのも、前述の論争に関する態度からすれば、不適当とは言えないであろう。では、彼らが古典期の言わば最後の輝きであるとして、以後の時代には見るべき法学(者)の活動は存在しないのであろうか。残念ながら我が国では、この古典期以後の、特に三世紀後半のローマ法学に関する研究は相対的にやや手薄であったとの感を否めないが、そのことは当時の法学を伝える史料の少なさに由来するとしても、注目に値しない時代であると即断する根拠とはならない。

 なるほど、法や法文化の刷新を継続させる諸条件は三世紀中葉から変化した。法学文献は集大成され新たな著作が不要となったこと、政治経済状況が悪化し幅広い階層が貧困化し、民事訴訟の件数が減少したこと、帝政後期の前駆とも言うべき皇帝の親政傾向もあって法学者は国家政策に活動の重点を移したことで官僚化し、法(学)が独立した存在ではなくなり政治的目標達成の手段と化したことは認められよう。だが、事態はその限りでは専主政期と同様であると言える。だとすれば三世紀中葉は法学の過渡期と位置付けられるに過ぎない。読者諸賢はお気づきかもしれないが、この時代像はローマ史学と共通するものであり、元首政との対比に注目した結果であろう。軍人皇帝時代を法学古典期に含めないとして、では、法学古典期の最後に位置付けられる法学者モデスティヌスについて、本書でも叙述されるゴルディアヌス三世が勅法で言及することは、如何に捉えるのが適切であろうか。

 従来、混乱に満ちた過渡期に過ぎないとされてきた軍人皇帝時代像に対して、本書訳者の一人、井上文則氏はその著書『軍人皇帝時代の研究――ローマ帝国の変容』において再考を迫った。三世紀には、皇帝や官僚の出自や経歴、出身地域に独特の傾向が現れ、帝国の統治構造が決定的再編を遂げていたとの指摘は、ローマ法学との関係でも大いに傾聴に値する。

 ダルマティア出身とされるモデスティヌスは、テュロス出身のウルピアヌスの弟子であり、両者は共に後代の引用法で五大権威者と定められた。このように法学者の供給源が帝国東部にも拡大したことを、井上氏の指摘を踏まえて的確に評価するのはローマ法学の課題と言うべきであろう。

 帝国の変容は皇帝・官僚の変容でもあり、制度とその基盤、及びその担い手や人的関係の変容でもある。政治史的文脈を読み解くことは、法制史的研究にとって幾重にも重要な意義を有するが、ここでは私の個人的関心に基づいて、二点を指摘したい。

 第一に、訴訟法制史の研究において、三世紀の変容は大きな意味を持ち得る。果たしてウルピアヌスは、前述のように為政者の意に沿うか否かを基準に、自らの学説法を形成したのであろうか。六世紀の法典に採用されたとは言え、自説の根拠には沈黙する史料からは、その答えは得られない。彼の沈黙は、引用する先行研究によって論拠が尽くされておりこれを彼も是認したことを推測させる。そこに如何なる政策的判断が加えられていたのか否かを見極めるには、政治史の知見を援用するのが有用である。そしてそのように選好された行為・利益が、訴権体系の中で如何なる法的手段によって保護を受けるべきと判断されたのかは、当時の法学(者)を特徴付ける上で興味深い題材となろう。更に、法的保護を得るに至った時期が三世紀と同定されるならば、その変容の背景こそが問われるべきである。例えば、私が冒頭で言及した禁止命令は、四世紀以降、職権審理手続に応用されたとの見解が近時イタリアから公表されており、その中間に位置する軍人皇帝時代にはそれまでと全く同様に法的禁止が継続していたのか、それとも応用が主張されるコンスタンティヌス朝期に眠れる命令を目覚めさせる契機や要因があったのか、が次なる課題となり得る。

 第二に、ローマ帝国で如何なる行政活動が行われていたのかについても、三世紀に関する研究が独自の価値を有し得る。行政には、司法や立法から区別される意味で個人を規律する施策を執行するという意味の他に、当該地域における統治作用を指す用法も認められる。古代ローマ世界には、行政の組織と作用、及び国民・市民との関係を定めるという近代法的意味での「行政法」は存在しなかったとされるが、国家・都市の経営が複雑化するに伴い、また庇護民や無産階級の台頭も相俟って、「パンとサーカス」に代表される公共サービスが一層重要な課題になったと考えられる。そこで、三世紀における帝国の変容は、こうした公共サービスの在り方や需給関係、特にそれにまつわる人的紐帯を浮かび上がらせる格好の素材となる。

 浅学の私が言うまでもなく、ヨーロッパや地中海周辺地域での遺跡や碑文の発掘作業が進展し、考古学的成果が次々と発表されて以降、属州史と呼び得る分野が形成されるに至った。同時に先進・中心史観への批判・反省から地域史ないし地方史への目配りが求められ、例えば「ローマ化」の度合いや態様が検討されるなど、西洋古典古代史は対象的方法的に深化ないし分化している。こうした動向を基礎に、統治に関する研究が行われるべきことは明らかであり、これを踏まえずしてローマ法学が帝国内外の行政を論じるのは不適切との謗りを免れないであろう。

 当時の行政を法的に検討するに際しては、担い手やその経歴、職責と相互の関係に加え、財政的な基盤や構造なども考慮せねばならない一方で、同様にそうした行財政が被治者にとって如何なる存在であったのかという社会史的観点も重要である。いずれの点も、当事者の弁を記した史料から直接に窺う他に、皇帝の視点から述べられた間接的な言及からも、大いに示唆を得ることが出来る筈である。

 もちろん、帝国が変容する以上法制史的に有意な変化が軍人皇帝時代に生じた筈だ、との先入観から出発すれば、例えば行政組織の変化に帝国変容との因果関係が認められるとしても、当該時期を過渡期として等閑に付すのと同様、結論先取の誤りを犯すことになる。だが我々は既に、騎士身分興隆という統治階層の転換が重要性を有し、軍人皇帝時代は決定的な過渡期であった、との政治史的知見を得た。

 今や、三世紀中葉は、法学の過渡期であればこそ、その内実が問われるべきと言えよう。だが、卑怯にもこの課題を指摘する以上の用意を備えていない私ならずとも、その問いには困難さが伴うことは疑いないであろう。公道付近での工事に関する行政規律の例に戻れば、沿道民の土地利用よりも、円滑な往来の確保が重視されるのは、軍隊を迅速に移動させたい皇帝の意向に基づくのかもしれない。他方で、利害関係者の申請を俟つとの先行する告示を破棄しないまでも、新たな立法により工事を禁じる方策も立てられた筈である。ディオクレティアヌス帝の登位まではそれが不可能であったとすれば、禁止命令の執行力こそが鍵であって、それが法学者に認識されていたのかもしれない。このように、可能な見解を論拠と共に列挙して、その中から選択すべきものを端的に示すウルピアヌスの採った方法は、最早我々には許されない。とは言え、そうした彼の方法もまた、法学(者)のスタイルの一つとして、興味深い主題ではある。






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