古代史研究会
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○第1回古代史研究会大会 発表要旨

研究報告1 竹内 一博(神戸大学)
 古典期アッティカのデーモスといなかのディオニュシア祭

 本報告は、アッティカ田園部のどの祭儀よりも広範に説明され、デーモス成員の宗教的、文化的生活における重要な行事であったとされる、いなかのディオニュシア祭(Rural Dionysia)における一儀式の検討を通じて、前4世紀後半のアテナイ社会におけるデーモスの様相の一端を明らかにしようとする試みである。

 近年、S.Goldhillは、前5世紀の中心市のディオニュシア祭(City Dionysia)において、劇の上演に先立ってディオニュソス劇場で行われたいくつかの儀式が、全てポリスの権威及び威厳の感覚と密接に結びついていることを主張した。中でも、ポリスのために貢献したものに加冠することを宣言するという儀式は、個人とポリスとの間の様々な結びつきや義務を確認する一つの手段であったという。ここで注目すべきは、功労者に加冠することを宣言すべしという規定が、デーモスの顕彰決議においても見ることができ、宣言がとりわけいなかのディオニュシア祭の時の劇場において行われていた事である。

 加冠の宣言に関する規定は顕彰決議に自動的に組み込まれるものではなかったため、そこに特別な意図が読み取れる。また加冠の宣言の場としてディオニュシア祭の時の劇場が指定されていたことは、女性や子供およびデーモスに存在する他者に対する公開性という可能性が考えられる。そして前4世紀後半にこれらの史料が集中することは、史料残存の偶然性を考慮した上で、デーモスにおいてこのような儀式を行うことを必要とする社会的背景があったと想定される。その一因としてアッティカ田園部から中心市への移住が考えられ、デーモスのあり方およびデーモスを基盤とするアテナイ社会のあり方に影響を及ぼしており、デーモスはポリス生活の危機に対する反動として自らのアイデンティティを主張したのではないか。

研究報告2 森園 敦(広島大学)
 アテナイ陶器画におけるテセウス表現の変化

 神話上の英雄テセウスは当てない古典期において最も重要な国民的英雄として扱われていた。そして主に彫刻、陶器画の分野でテセウスに関する物語が数多く表現されることとなった。しかし、前6世紀の終わり頃まではそれほど注目されていたとはいえず、アテナイ陶器画においても限られた主題にしか登場していない。

 前6世紀終わりごろからテセウス神話に、様々な神話が新たに付け加えられ、テセウスはアテナイ民主政の象徴として、確固たる地位を築いていく。前470年代のバッキュリデスの詩に、テセウスはポセイドンの息子(つまり神の子)であることを示す箇所があるが、おそらくこれは前5世紀入って新たに作られた神話であろう。つまり、テセウスは前5世紀に入って急速に到達した新しい英雄であったといえよう。

 発表者はここで陶器画に描かれたテセウスに注目したい。テセウスは陶器画において、ほとんどの場合、非常に若い青年として描かれている。それは髭のある壮年男子として描かれたヘラクレスとまったく異なる特徴である。テセウスは古典期においてアテナイ最初の王として、また民主政の創始者としてみられるほどの国民的英雄であった。にもかかわらず、アテナイ人はそうした威厳ある姿でテセウスの井マージを表現するのではなく、若者として陶器画に表現したというのは大変興味深い。古代ギリシア世界では、若者に対する特有の美への崇拝が存在した。テセウスが若者として表現されたのは、そうした若者の有す美への崇拝と関連付けられるのではなかろうか。そしてこれは、テセウスの新しい理想像が形成されつつあったことにつながるのではないか。

 本発表では前5世紀前半のテセウスを書いた陶器画を中心に、アテナイ人がいかなる背景をもとにして、テセウスのイメージを作り上げていったかについて考察していく。

研究報告3 鷲田 睦朗(大阪大学)
 「インゲニウム」「ウィルトゥス」考

 1912年のM.ゲルツァーの論考によって、共和政期ローマの政治を考察するためには、その背後にあるパトロニジ関係「クリエンテラ」に着目すべきであるという視角が提供された。この視角は、それまでのモムゼン流の図式的理解よりも説得的であったので、多くの歴史事象が「クリエンテラ」で説明されることとなった。その後、その万能性ゆえに、陳腐化しつつあった「クリエンテラ」論を救い出すため、前近代社会に広く見られるパトロニジ関係の中で、「クリエンテラ」のローマ的特殊性を探ることで、ローマ政治の本質に迫ろうとする研究も展開された。これらのゲルツァーの視角に依拠した研究蓄積は、共和政期ローマ政治史研究において、言うならば、一大パラダイムを形成したと言えよう。これに対して、異なる視角を提供したのは、1984年以来のF.ミラーの「民主政」論であるが、その評価は定まったとは言い難いので現状である。

 本発表は、「インゲニウム」という言葉が「ウィルトゥス」と共に用いられる場合を中心に、その用語法から、共和政期ローマにおける政治理論の一端に迫ろうとするものである。共和政末期の政治家・歴史家であるサッルスティウスによる『カティリナの陰謀』を考察して得られた結果は、「ローマの政治家が備えるべき精神の強さは、先天的なものであるが、それは後天的に訓育されなければならない」というものである。この理論は、共和政末期の政治家が辿らなければならなかった、公職選挙における厳しい競争を反映しているのではないだろうか。もし、この見解が説得力を持つならば、ミラーの「民主政」論と親和的であるだけではなく、本来ゲルツァーが強調していた「高い社会的流動性」とも合致する結論として、理論的側面から、共和政期ローマ政治の一面を描出できたと言えよう。

研究報告4 桑山 由文(兵庫教育大学)
 2世紀ローマ帝国と東方

 トラヤヌス帝(位98-117年)は、ダキア戦争やパルティア戦争など積極的に遠征を行った皇帝として知られており、その治世、ローマ帝国の版図は一時最大に達した。だが、従来、元首政ローマ帝国の対外政策は辺境防衛システムの構築を目的としていた、と考えられてきた。そのため、この範疇に入らないトラヤヌス帝の積極策は、彼個人の軍事的野心に発するものとされてきた。ローマ帝国の対外政策における例外的事例にすぎず、ハドリアヌス帝(位117-138年)以降は、本来の原則に戻った、というのである。
 ところが、こうした理解は、1990年代以降、B.Isaacらによって転換を余儀なくされた。彼によると、辺境に配備されたローマ軍団は、防衛だけはなく攻撃を目的として配置されたのであり、ローマ帝国は初代アウグストゥス帝以来、一貫して拡大主義的傾向を有していた。特に東方に対してこの傾向は著しく、トラヤヌス帝以降も継承されていき、ルキウス=ウェルス帝(位161-169年)やセプティミウス=セウェルス帝(位193-211年)のパルティア戦争はその典型であった。

 これに対して、近年、攻撃にせよ防衛にせよ、ローマ帝国には一貫した政策が不在であったことを強調する見解も現れてきた。本報告も基本的にこの立場にたつ。もっとも、この立場からの考察は、拡大主義的理解への反発から、防衛的側面を強調しすぎるきらいがある。加えて、皇帝ごとの政策的差異を重視するため、各皇帝の治世に議論を限定してしまい、全体の歴史的流れを捉えることができていない。また、全般に先行研究の関心はローマ側の軍事行動の有無に終始し、その背景となる周辺勢力の動向や当時の国内情勢などを見落としがちである。そこで、本報告は、これらの点に留意しつつ、トラヤヌス帝のパルティア戦争が、ハドリアヌス帝期意向のローマ帝国にどのような影響をあたえていったのか、考察していく。

研究報告5 栗原 麻子(奈良大学)
 アッティカ法廷弁論における訴訟の動機と私的敵意

 古典期のアテナイは、はたして競争的社会であったのか。この問題をめぐっては、法廷のagonisticな性格を強調するコーエンと、秩序志向性を追及するヘルマンとのあいだで、論争が繰り広げられてきた。本発表では、この問題について、法廷弁論における敵意のトポスに絞って考察する。

 古典期のアテナイにおいては、公的訴追が任意の市民の手にゆだねられていた。従来の通説では、それゆえ、告発者は、公訴においても、私訴におけるのと同様に、彼らを告訴にむけて動機づけた私的な敵意や復讐への熱意を、ためらわすにあからさまにした、と考えられてきた。この、公訴と私訴の別を軽視する傾向は、オズボーンが、訴訟手続きの多層性と、法の運用の柔軟性を強調して以来、加速している。「公的な裁判について一般にいわれていることは、本当です。私的な敵意は、しばしば公の問題を匡すのです」と述べるアイスキネスの言葉は、公私の間の現実的な連関が、アテナイ人たちによって、社会的現実として認識されていたということを示している。
 しかしながら、法的弁論の言説を規定する立て前の部分では、私的な敵意は、公訴の正当な動機と認められていなかった。現実的なおもんばかりから、私的敵意を隠しきれない場合にも、弁論の作者は、公私の峻別の規範を、するどく意識しているようにおもわれる。

 訴訟の動機にみるかぎり、公訴と私訴の手続き上の区別は、形骸化せず、アテナイ社会に浸透していた。この、公訴を個人的な復讐に用いることを忌避する態度からは、すくなくとも理念のレベルで、私的な復讐と名誉の追求から隔絶された、公的領域の高みをみいだすことができる。

                         (所属などは発表時のものです)



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