古代史研究会
       Top    Topic    Activity   Member    Essay    Link    




○第3回古代史研究会大会 発表要旨

研究報告1 阿部拓児(京都大学)
 キュロスのペルシアとアジアの「無力化」

 ヘーゲルは『歴史哲学講義』において、ペルシア戦争を、世界史的重要性を量る天秤に準えている。そして、その天秤の一方の皿には東洋的専制政治のペルシアが、他方の皿には「個人の自由が生活に活気を与えている世界」であるギリシアが乗せられ、結果、「アジアの原理を無力化した世界史的勝利」が生じたとする。むろん近年は、「アカイメネス朝ペルシア最後の一世紀(前4世紀)は果たして衰退として位置付けられるのか」といった疑問が盛んに呈され、ヘーゲル流の図式も見直されている。本報告は、かかる研究動向を出発点とし、前4世紀のギリシア人が、ペルシアの過去と現在との関係性をいかなるものとして認識していたのかということを問題として設定する。

 如上の問題を考察する際の主な史料として、本報告はクセノフォン著の『キュロスの教育』を選択する。古代およびルネサンス以降を通し、『キュロスの教育』を始めとするクセノフォンの著作は広く読まれてきたこと、クセノフォンは稀に見る多作家であったこと(偽作とされている『アテナイ人の国制』を除いても、14作品が現存。cf., Diog.Laert.,II,57)、『キュロスの教育』は同じく彼の著作である『アナバシス』と同様、その全編を通しペルシアを舞台としてストーリーが展開していることなどが、その理由として挙げられる。以上のことから、本報告が設定した問題を考察する際、『キュロスの教育』は恰好の史料となるはずである。

 しかし、従前の研究者たちは『キュロスの教育』に内在するフィクションを思わせる要素のゆえに、『キュロスの教育』を史料として用いることには消極的であった。そこで本報告では、「歴史」史料としては「忌避」されてきた『キュロスの教育』を「歴史」叙述として捉えなおせるのか否かという問題を考察した後に、先に設定した問題を解明したい。

研究報告2 藤森誠(日本学術振興会特別研究員)
 B.C.3世紀のアルシノイテス・ノモスの行政機構

 プトレマイオス朝エジプトは、領域経営というヘレニズム諸国家共通の課題に直面し、官僚機構の構築をもってその課題に応えたことが知られている。古代著作家達による諸々の記述やプトレマイオス2世の収税法等から、前3世紀の行政構造一般に関し、次の概念が広く受け入れられてきた。:エジプトは、財務大臣たるディオイケーテースを頂点に、ノモス(県)へと下位区分され、さらに各ノモスはトパルキア(郡)へとさらに下位区分されており、各ノモスの長はノマルケースなる役人で、また各トパルキアの長はトパルケースなる役人であり、ノマルケースはトパルケースの上司である、という概念である。

 しかし近年、かような像は批判にさらされている。A.Samuelは、同王朝行政のad hoc的性格を強調する立場から、次のように指摘する。:同一時期に1つのノモスで、複数名のノマルケースが活動している、即ち、1人のノマルケースの管轄域はノモス全体に及ばず、彼はそれより狭い「ノマルキア」なる何らかの小管区を担当していたこと。他方、ノマルケース管区の「ノマルキア」は、明確な地理的領域を指し示さず、「誰々の(ノマルケースの名前)ノマルキア」というように、その官職保有者の名前を伴ってしか表現され得ない実体であること。さらに、必ずしもトパルケースはノマルケースに服属せず、この両者は同等者とも取れる事例があること、等である。

 本報告では、上記反証事例を検討し、ノモス・ノマルキア・トパルキア(及び各々の管区の役人)の関係に一定の解決を示した後、さらに進んで、前3世紀アルシノイテス・ノモス(=ファイユーム)の行政構造全般を論ずる。同ノモスは前3世紀、初期三代のプトレマイオス王の下、大規模な干拓が行われ、当地の耕作面積は3倍になったとされる。新規開発されたこのノモスでは、行政も新たに一から構築された。これについては近年W.ClarysseとD.J.Thompson等の精力的な研究がなされており、本報告では彼等の最新の研究成果を踏まえ、初期同王朝がいかなる原則の下、行政を構築したのかを明らかとしたい。本報告では、同ノモス内部の行政が、5つの階梯に成層化されていたことを示し、各レヴェルがそれぞれいかなる役割を担っていたのか、明らかにする予定である。
 
研究報告3 米本雅一(同志社大学)
ガビニウス法と共和政末期のコンティオ ―帝国経営と民衆政治―


 前67年、護民官A.ガビニウスによって、ポンペイウスに海賊討伐のための大権を与える法案が提起される。このガビニウス法は異例の大権を一人の指揮官に与えるという点で、権力の集中を回避するという共和政ローマの政治理念に反する内容のものであった。そのため、この法案は元老院を中心とした共和政理念から脱却し、一人支配の確立へと向かう分岐点として評価される。しかしながら、現在の共和政ローマ研究の状況を鑑みるに、別の視点からこの法案を評価する必要がある。それは政治と民衆の関わりという視点からの再評価である。というのも、ガビニウス法の成立過程のなかで、民衆という存在が介入してくるからである。そして、法案成立過程に民衆を介入させる媒体となったのがコンティオ(=演説集会)である。

 ガビニウス法が可決されるにいたる過程のなかで開催されたコンティオにおいて、支持者・反対者の両陣営が民衆に対して演説を行っている。支持者は海賊を駆逐するため、ポンペイウスにその任をあたらせる必要を説き、反対者はポンペイウス一人に大権を与える危険性を主張する。聴衆であるローマの民衆は法案への圧倒的な支持を示し、反対者を沈黙させ、法案は民会において可決される。

 本発表はガビニウス法の成立過程に見られる政治と民衆の関係について、コンティオをその結節点として捉え、共和政ローマの政治と民衆の関係性について考察を行う。法案の成立過程をみると、「民衆の声」が大きな影響力を与えたことがわかる。この「民衆の声」は民衆の側から自発的に表明されたものではなく、政治家たちによって与えられた「声」という側面を持つ。しかし、他方でこの「声」は政治家たちの行動を規制する。ここにおいて、政治家と民衆の権力と規制の循環関係が成立する。本発表においては、権力と規制の循環関係こそ共和政ローマの政治と民衆の関係性であることを示したい。

究報告4 佐々木健(京都大学)
紀元前3世紀の神殿占拠事件と後代のinterdictumについて

 キケロの弁論にも登場するinterdictum(禁令・特示命令)は、訴訟という形式を通じて当事者に対して発せられるものでありながら、所有物取戻訴権などとは異なる性格を有した。interdictumは訴権とは質的に異なり、訴権の行使とは無関係に申請・発布されるものであり、それ故に行政的とも評される。帝政後期には訴権と同視されるに至ったinterdictumが如何にして生成・展開したかを考察することは、法が保護しようとした対象の変遷を探り、古代ローマの法的関係を明らかにしようとする上で、意義あるものと考える。
 
 interdictumの生成に関しては、ローマ法学の伝統的通説によれば「不動産占有保持特示命令interdictum uti possidetis」が最古のものとされる。しかしその論拠は、一旦発せられた命令に当事者が違背する場合に、相手方がその当事者に対して履行や損害賠償を求める「後続手続」の在り方が複雑で罰的であることにあった。これに対して、帝政前期の著作に見られるとあるinterdictumが、紀元前3世紀の神殿占拠事件に際して出された法務官の命令文言と類似することから、神聖な場所に関するinterdictumが最古のものであると推測する学説が存在する。

 本報告では、interdictumの生成に関するこの「神聖な場所起源説」を紹介し、紀元前3世紀の神殿占拠事件との関係を考察すると共に、神聖な場所に関するinterdictumが次第にその射程を拡大したことからinterdictumの適用範囲が拡大した過程を推測し、その際にinterdictumと訴権とが当初は別々の対象を射程に収めるという役割分担を行っていたことを示したい。勿論、大きな時間的隔たりと史料的な制約とに留意せねばならないが、interdictumの射程が類型的に拡大したと推測することは可能ではないかと考える。

講演 アラン・K・ボーマン(オックスフォード大学古代史教授)
 Bureaucracy and Documentation in the Roman Empire.

                       (所属などは発表時のものです。)



Copyright © 2004 The Society for the Study of Ancient History. All rights reserved