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○第4回古代史研究会大会 発表要旨

     ヘレニズム期エジプトにおけるディオニュソスのテクニタイ
                           波部 雄一郎(関西学院大学)

 ディオニュソスのテクニタイは、紀元前3世紀の初頭に、それぞれアテナイ、イストミア、イオニア、エジプトで結成され、各地で開催された祭典に参加し、演劇の上演や音楽コンテストに参加した集団である。彼らは芸術活動に従事するだけでなく、各集団の中には、俳優や演奏者以外にも、財政を担当する人物や、宗教行事を担う神官職が置かれ、またテクニタイ内部は独自の法によって統制されていた。

 このように、「都市」と同様の機能を備えたディオニュソスのテクニタイは、地中海世界の各地を移動しながら、幅広い活動を行っていた。彼らは祭典を通じてヘレニズム君主や諸都市と関係を結ぶこともあり、なかでもエジプトを拠点とするディオニュソスのテクニタイについては、プトレマイオス王家によって免税特権を付与されるなど、手厚い保護を受けていた。両者が密接な関係を結んだ要因として、プトレマイオス朝がディオニュソスを王朝の祖先として崇拝していたことに加え、ディオニュソスのテクニタイがプトレマイオス朝によって創設されたテオイ・アデルフォイやテオイ・エウエルゲタイという王朝祭祀に関与していた可能性が考えられる。

 本報告では、エジプトや同じくプトレマイオス朝の支配下にあったキュプロスにおけるディオニュソスのテクニタイの活動について、他の地域におけるテクニタイと比較しつつ、その独自性を考察する。それによって、彼らの行動範囲が限定的であったことが指摘される反面、プトレマイオス朝の文化政策にとって、ディオニュソスのテクニタイが非常に重要な役割を担っていたことが明らかにされる。その上で、ディオニュソスのテクニタイの活動をとおして、プトレマイオス朝における王権の側面についても検討を加えたい。


                ポンペイの「コミティウム」
                               藤井 崇(京都大学)

 ポンペイの中央広場、フォルムの南東角に、柱と壁体のみが残る平行四辺形の空間がある。アッボンダンツァ通りをはさんでエウマキアの会堂と向かい合うこの構造物は、通例「コミティウム」と呼ばれている。約17メートル×21メートルの広さを持つこの「コミティウム」には、人目を誘うモザイクや彫刻は存在しない。しかし、都市ポンペイの公的生活を考える上では、非常に重要な研究対象であると考えられる。本報告は、この「コミティウム」を、できうる限りポンペイの政治空間のなかに位置づけようとするものである。

 「コミティウム」の政治的機能については、19世紀より研究者が関心をそそいでいるが、ポンペイでは都市ローマのトポグラフィー研究と異なり決定的な文献学的証拠を欠くため、これまでに様々な見解が提出されている。報告者は、今夏8月から10月までの約2ヶ月間、財団法人古代學協会、西方古典文化研究所(在ポンペイ)にて、協会スタッフの協力のもと、「コミティウム」を実地に調査する機会に恵まれた。本報告では、先行研究者の議論を踏まえた上で、自身の調査から明らかになった考古学的・建築学的証拠を提示し、「コミティウム」の成立、展開、機能に肉薄してきたい。その際には、特に、使用されているレンガの編年や周囲の家屋壁との関係、「コミティウム」内の演台の意義付け等が問題となるであろう。

 そして、最終的には、以上の考察で得られた「コミティウム」像が、多数の碑文とそれに基づいた諸研究から明らかになっているポンペイの公的生活、そしてその歴史的推移のなかでいかに捉えられるのかを検討し、さらに、ローマ期イタリア都市の政治生活のあり方を展望したい。


             ポンペイにキリスト教徒は存在したか
                                 石渡巧(東京大学)

 紀元79年、ヴェスヴィオ火山の大爆発によって埋もれた町ポンペイに、キリスト教徒が存在していたのかどうか、これが本報告の問いである。

 まずは状況証拠として、同時代のイタリア半島におけるキリスト教徒の存在を指摘する。スエトニウス「クラウディウス伝」に言及される「クレストゥスの煽動」(25)がキリストを指すかどうかは研究者の間に議論があるが、使徒パウロによる『ローマ人への手紙』が紀元50年代半ばに書かれていることから、都市ローマには既に50年代の段階でキリスト教徒が集団で存在していたことが確認される。また64年のローマの大火の際に、皇帝ネロによりキリスト教徒に放火の罪が着せられ、迫害されたことは周知のごとくである。一方、イェルサレムで捕えられたパウロがローマへ護送される際に立ち寄ったポテオリの港で、彼は「兄弟たちを見つけ、勧められるままに七日間滞在」したという(使徒28:14)。ポテオリとポンペイとは直線で30キロほどの指呼の内である。

 ポンペイ市内では、Iesus, Abinnericus, Maria, Marthaなどユダヤ人と思われる名が確認されているし、「ソドム・ゴモラ」という木炭による落書きが残されている。こうしたいくつかの証拠からユダヤ人の存在が確認できる。キリスト教徒の存在にかなりの信ぴょう性を与えるのが、19世紀に発見された"CHRISTIANOS"と書かれている落書きである。この落書きは経年の磨滅により目視できなくなっており、"CHRISTIANOS"という読みに関しては長年疑問が呈されてきた。しかし1990年代にP. Berryが光学機器を使った炭素粒子測定を行い、消えかかっていた"CHRISTIANOS"の読みが確定された。また"AARIA"と読まれていた箇所は"Maria"という読みが濃厚となった。この落書きについて、その発見から今日に至る経緯と研究史とを詳しく紹介したい。


               体験的古典考古学論
         関隆志(大阪市立大学名誉教授・宝塚造形芸術大学教授)

 
 ミュケナイ史研究の第一人者故ミュロナス教授との出会いがきっかけで、国際法学から古典考古学へと180度の方向転換を決意してから40年、古典考古学発祥の地のドイツ留学を果たしてから35年、そして、日本に帰国してから25年がたちました。思い起こせば、82年に「国際パルテノン会議」(バーゼル)に招待されて震えながら行った初めての発表や、それが縁でギリシア政府文化科学省主催の「パルテノン神殿修復国際会議」へ83年から毎回招聘されることになったこと、また、5年に一度の「国際古典考古学会議」に83年のアテネ、88年のベルリンと連続参加して発表、その合間を縫っての『古典古代神話図像学事典』(LIMC)国際専門家委員会への出席、さらには、84年の「古代ギリシア並びに関連陶芸に関する国際シンポジウム」(アムステルダム)で発表した内容が無断引用されことや、87年の同コペンハーゲン大会で悪意ある質問を受けたことまでが、あたかも走馬灯のように浮かびます。87年にアテネ考古学協会の名誉会員へ推挙されてから世界が開け、97年にドイツ国立考古学研究所の通信会員に選ばれて、研究環境が大幅に改善されました。

 B.Andreae教授の指導のもとに78年に書き上げた博士論文の内容は、J.D.Beazleyによるアッティカ陶器の装飾画研究とH.Bloeschのアッティカ杯の器体の研究に準拠しながら500作品を超える調査結果をまとめたもので、付随的に興味あるプロポーションの存在を発見できました。しかし、その比率を ”The Magic Section” (魔除けの分割)と命名できたのは、25年後の第16回「国際古典考古学会議」(ハーバード大学主催)の発表においてでした。

 今回は、これまで体験的に学んできた課題の中から、「アテナイ人の自覚から自信まで」をサブ・テーマに、前6世紀末からパルテノン建設までの軌跡をたどってみます。そして、「人が生息する地球表面の5パーセント、人類の誕生から今日までの時の流れの僅か4/1000をカバーするに過ぎず、さらに、世界の考古学者の中の僅か5万人に一人の研究対象に過ぎない」と揶揄される、しかし、愛すべき古典考古学から何が知られるのか。また、その意味についてお話ししようと考えております。


                       (所属などは発表時のものです。)



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