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○第5回古代史研究会大会 研究報告要旨

   ヘレニズム時代におけるサラピス崇拝伝播−デロス島を中心として−
                              中尾 恭三(大阪大学)

 ヘレニズム時代における、ギリシアへのサラピス崇拝伝播について論じる。東方からギリシア各都市への祭儀伝播は、アルカイック期、古典期をつうじての、ギリシア人による文化受容の一形態であり、ヘレニズム時代にいたってその傾向は加速した。サラピスも、この時代に広範な地域にわたってギリシア人に崇拝されるようになった神であり、宗教面での文化受容にかんして、変化と継続性を分析するにふさわしい対象である。このサラピス祭儀伝播について、包括的な研究をおこなったのがP. M. フレイザである。かれの研究はエジプトのアレクサンドリアを基点とした祭儀伝播を中心としており、デロス島の重要性を十分に論じきれていない側面がある。ギリシア人が居住する各地域でサラピス崇拝の痕跡が増加するのは、前2世紀にはいってからであり、エジプト国内における宗教政策の推移とは相容れない。

 サラピス崇拝の中核地としての役割をになったのは、キュクラデス諸島に位置するデロス島である。ここでは、前3世紀前半にエジプト人によって祭儀が伝えられて以降、同世紀末には神殿の建設がおこなわれた。さらに2度の異なる神殿建設をつうじて、前2世紀半ばまでには、在留外国人による小規模な儀礼から、ギリシア人の崇拝者もふくむ代表的な儀礼へと成長した。この発展と平行して、ギリシア人各都市でもサラピス崇拝がおこなわれるようになっており、デロス島からの祭儀伝播が想定される。この実証にあたって利用する史料は、デロス島を中心として各地で発見された奉納碑文・決議碑文である。これらの分析から、ギリシア各地でのサラピス崇拝の特色をあきらかにし、各都市で独自の発展をとげつつも、デロス島でのサラピス祭儀との類似性をたもちつづけたこと、その伝播の中心地がデロス島であったことを論じる。



       共和政ローマの政界と貨幣−図像の検討を中心に−
                               比佐 篤(関西大学)

 共和政ローマは都市国家の制度を基本的に維持し続けたため、その中枢を担った公職者は、その勢力の大きさに比べれば、少数であったと言える。とはいえ、公職者は原則として1年任期であったのだから、公職に就任した人数そのものは、決して少なくない。そのため、ローマの政治や外交を探る研究では、公職者の考察が重要な位置を占め続けている。ただし、コンスルやプラエトルといった上位に位置する公職者は別として、それ以外の公職者については、その名前すら十分に判明していないのが実情である。碑文史料が貧弱な共和政期には、ほぼ文献史料に頼らざるを得ないため、それが欠けている時期に関しては、なおさらその具体的な検討に大きな困難を伴う。

 そうしたなかで、下位に位置する公職者であるにもかかわらず、その名前がかなりの割合で判明するのが、貨幣の鋳造の責務を担った貨幣鋳造委員である。前3世紀よりローマ人自身の手によって鋳造され始めた貨幣は、ほぼ途切れることなく、時代ごとに一定量の史料を提供してくれる。そして、前2世紀に入る頃より、貨幣鋳造委員の名前を刻むことが通例になっていく。このため、第2次ポエニ戦争期からオクタウィアヌスの勝利に至るまでの200年弱の期間において、さほど時代が偏ることなく、350名以上の人名が判明している。一方でこれらの貨幣は、その図像の種類も多岐にわたっている。こうした図像の選択には、鋳造を担った個々の貨幣鋳造委員の意志が反映している場合が少なくない。いわば貨幣は、共和政期の政界における人々の意識を、連続した時代の流れの中で窺い知れる興味深い史料なのである。

 そこで本発表では、貨幣史料に基づいて、その就任者と図像を当時の状況と絡めつつ考察することで、共和政ローマの政界にこれまでと違った観点から迫ってみたい。



           都市アクィレイアと3・4世紀の皇帝たち
 ―ディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス帝の碑文史料を中心に―

                  大清水 裕(東京大学・学振特別研究員DC)

 イタリア半島の北東部、アドリア海に程近い都市アクィレイアは、前181年に建設されて以来、この地域の経済・軍事上の拠点として数世紀にわたって繁栄を謳歌した。その繁栄は中世まで続いたと言われるものの、現在のアクィレイアは広大な田園地帯に位置する小都市にすぎない。しかし、その結果、この地には数多くの遺跡が現在も残されており、また、数多くの碑文も発見されている。それらから得られる知見は、この古代都市に言及するいくつかの文献史料とあわせ、この古代都市を様々な側面から、時代の変遷に沿って理解することを可能にしてくれる。

 今回の発表では、このアクィレイアという都市に注目し、古代末期の初頭、すなわちディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス帝の治世における都市と皇帝の関係について考察を進めていきたい。

 既に述べたように、アクィレイアからは数多くの碑文が発見されており、ディオクレティアヌス帝やコンスタンティヌス帝の治世においても、それは例外ではない。ディオクレティアヌス帝治世には、皇帝たちはアクィレイアで神々に碑文を捧げ、コンスタンティヌス帝の治世には、皇帝の恩恵によって浴場が修築されたことが碑文から分かっている。これらの行為自体は、一見すると、何ら特筆に価するようなものでは無い。しかし、それらの碑文を、同時代のイタリア内の諸碑文のみならず、アクィレイア出土の他の時期の碑文とも比較していくと、これらの碑文の持つ意味は、その表面的な意味を越えて大きなものであったことが分かってくる。

 古代末期の都市は、皇帝権の強化と官僚制の整備に研究者の関心が集まる中で、統治機構の末端に位置するものと理解されがちである。そのような側面も否定できないにせよ、皇帝ではなく都市の側に視点を据えて、この時期に都市と皇帝がいかなる関係にあったのか、あるいは両者の関係はどのように変化していったのか、考察を進めていきたい。統治機構の末端に位置する、静態的な古代末期の都市像とは異なる、動的な都市像の一端を示すことが出来れば幸いである。



          古代末期研究の文化論的転回について
                              足立 広明(奈良大学)


 古代末期研究がさかんである。ここ四半世紀ばかりの間、北米英語圏を中心に爆発的な勢いで数多くの独創的なモノグラフが上梓されてきた。わが国ではまだまだ散発的、部分的な研究が専門誌上で見受けられるに過ぎないが、少なくとも研究者間においてはかつての「衰亡」や「停滞」のイメージは払拭され、若い研究者が個別研究テーマの対象を探す魅力的な領域の一つとなりつつある。本報告は、この近年の古代末期研究の動向について、ジェンダーと禁欲修道運動との関係性を中心としながらも、現時点での一つの展望を示すことを試みるものである。

 古代末期は周知のごとく啓蒙主義歴史家エドワード・ギボン以来、アンリ・ピレンヌやアルフォンス・ドプシュなどといった史学史上の名だたる大家があつかってきた。しかし、国民国家中心の歴史観や古典古代の市民に自己同定する近代市民の主観的な視界からは古代末期はどうしても遠い、誤解されがちな時代であり続けた。この状態に大きな転換点を与えたのはアメリカのピーター・ブラウンである。彼はアウグスティヌス研究で培った文章表現力と、キリスト教聖人伝研究にそれまでなかった文化人類学の手法を導入する大胆な発想の転換によって、古代末期に向けられる近代の研究のまなざしそれ自体を問い直した。そして、古代末期をそれ以前の古典古代文化が再編成されていく時代として積極的な意義付けを与えていくのである。彼以後の古代末期研究については、ワード・パーキンスのように一定の留保条件を示す研究者もあるが、宗教、性、エスニシティ、コミュニケーションなどのさまざまな側面で、以前には考えられなかった隆盛を誇るに至っている。とくに、80年代のフェミニスト歴史家と90年代以後の言語論的転回を意識した研究者の論争は、この間の新しい古代末期研究の課題と問題点を示す好例となっているようにも思われる。報告ではこの点から問題点を開示していきたい。



          シリア・ヨルダンの古代遺跡を訪ねて
                井上文則(筑波大学)・疋田隆康(京都大学)


 発表者の二人は、2006年7月20日から8月2日にかけて、シリアおよびヨルダンを旅行する機会に恵まれ、両国に散在する古代オリエントからイスラム期におよぶ多くの遺跡を訪ねることができた。本発表では、このうちローマ、ビザンツ時代の遺跡に焦点を絞って、スライドと共に紹介する。取り上げる遺跡は、マアルーラ、アパメア、サン・シメオン、レサファ、ドゥラ・エウロポス、パルミラ、ボスラ、ジェラシュ、アンマン、ペトラである。また、併せて、シリア、ヨルダンの観光事情や博物館の状態などについても言及する予定である。

 ただし、発表者は二人とも考古学者でも、美術史家でも、建築学者でもないため、あくまでも本発表は、素人の「訪問記」ないし「印象記」に過ぎないことはあらかじめ断っておきたい。なお、アパメアとペトラは疋田が担当し、その他の遺跡は井上が担当する。




                       (所属などは発表時のものです。)



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