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○第6回古代史研究会大会・京都大学西洋古典研究会 報告要旨

         前5世紀後半における国際関係とアウトノミア概念
      ――アテナイとスパルタによるヘゲモニー争いを背景に――

                           篠原 道法(立命館大学大学院)

 前5世紀後半の国際関係は、アテナイの「帝国」化および、それに危機感を持ったスパルタとアテナイによるヘゲモニー争いを中心にして展開した。当時の国際関係を読み解く上で注目すべきは、この時期に、アウトノミアという概念が登場した、あるいは、この概念が重要な役割を果たすようになったと思われる点である。このことは、対立の時代に生きたトゥキュディデスがその原因と経過を叙述する際に「自治」「独立」などと一般に訳されるアウトノミア―autonomia―という概念、主にその形容詞形であるアウトノモス―autonomos―を頻繁に用いているという事実から窺える。

 そこで、本発表では、前5世紀後半のアウトノミアやそれと語基を同じくする語の用例分析を中心にして、この概念が前5世紀後半の国際関係において果たした役割について考察する。ただし、ここで注意せねばならないのは、前5世紀後半の言論空間を再構築するための史料を、ほとんどトゥキュディデスに依存しなければならないことである。トゥキュディデスができる限り客観的に事実を提示しようとしていたことは確かであるが、彼の認識がどれほど一般的であったのかについては一定の留保が必要であろう。

 こうした限界を認識しつつも、前5世紀後半におけるアウトノミア概念の展開、そして、この概念を基軸に据えた国際関係の有り様について1つの可能性を提示したい。また、アウトノミア概念の用例分析を通じて、近年、Hansenらによって提示された「アウトノミア=『自治』という伝統的な理解は誤りであり、アウトノミアは一般的に『独立』を意味していた」という見解に対しても再検討をしたい。



                  駄洒落と民族意識
                         山下 修一 (京都大学大学院)

 キオスのテオポンポスは、マケドニアのピリッポス二世を中心に据えた『ピリッピカ』という作品を執筆した。現在は断片しか残らないが、トゥキュディデスとポリュビオスを隔てる期間の歴史叙述の典型として論じられることの多い作品である。テオポンポスの特徴として、レトリックと道徳意識への関心が一般に挙げられているが、これまでの研究では、これらが独立した問題として論じられてきた。しかし、作品中に繰り返し用いられている駄洒落(=類音接近)にこそ、この問題の核心があるのではないかと思われる。

 テオポンポスの駄洒落の独自の使い方を考察するために、道徳意識の発露としてもっともよく論じられるF225を分析対象として取り上げる。ここに二度、駄洒落が用いられている。古代文学にあっては、同一音あるいは類字音の反復は一般的である。イソクラテスは、ゴルギアスの影響を強く受け、散文にも韻文と同様の美的価値を求めている。弟子であるテオポンポスの駄洒落も同様の文脈で論じられるが、しかし、その範疇にとどまるものではなく、むしろピリッポス二世を批判するために巧妙に利用している。つまり、駄洒落が「軍事」と「性」という無関係の現象を結びつけているのである。

 次に、歴史的真実性を痛烈に批判したポリュビオスの論点を考察する。これは、後代の人物が駄洒落の成り立つ前提を共有できないことから起こる批判であろう。テオポンポスは、この限りにおいて歴史家としての限界を示している。しかし、ここに見られる駄洒落にこそ、マケドニアという新興国に対する当時のギリシア人の状況を読み取ることができるのではないかと思われる。



        ヘレニズム時代のアレクサンドロス大王像
       ――ポリュビオスの『歴史』を手がかりに――
                      柴田 広志 (京都府立大学大学院)


 アレクサンドロス大王が如何なる人物であるかということについては、冗長な説明をここで述べる必要はないだろう。マケドニア王として即位後にペルシア帝国への遠征を行ってこれを征服し、インドに到るまでの巨大な領域を征服した人物である。また、大王の東方遠征を画期としてヘレニズム時代が始まったとされていることも、殊更に述べるまでもないほどよく知られた常識といってよいと思われる。

 さて、アレクサンドロス大王は古代以来多く伝記や研究の対象とされたが、時を経るにつれて同時代史的記述が消滅してしまったために、後代の伝記、とりわけアッリアノスに代表される5つの『大王伝』に拠って研究が為されてきた。しかしながら、これらの『大王伝』がいずれもローマ時代の史料であるという問題点は早くから認識されてきたものの、アレクサンドロス大王について記した最古の文献については閑却されてきた。それが、ポリュビオスの『歴史』である。

 ポリュビオスがアレクサンドロス大王について『歴史』の中で書き遺している部分は諸『大王伝』に比較して少なく、また分散して残されているため、扱い難かったという問題がある。しかし、同文献はアレクサンドロスについて扱った記述では最古のものであるということに加え、ヘレニズム時代に大王がどのような存在として語られていたのかということを伝える貴重な史料であるという、看過しがたい価値を持っている。

 これまでポリュビオスの『歴史』中に現れる、アレクサンドロス大王の描写に注目して集中的に論じた研究は、ウォールバンク(1993)やビロウズ(2002)の他にはあまり無く、何より全面的な整理・検討を加えたものは、ビロウズによる研究のみである。その研究は極めて参考となるものだが、全体的な見取り図を示したものというべきであり、さらに微細な検討も可能であると思われる。この検討を通じて、ポリュビオスが描くアレクサンドロス大王の像はどのようなものであったか、そしてひいては、ヘレニズム時代のアレクサンドロス大王のイメージ検討への展望を探ることが、本報告の目的である。



              小アジア南西部の古代都市遺跡
    阿部 拓児 (京都大学大学院・日本学術振興会特別研究員DC)


 紺碧の海と灼熱の太陽に恵まれたトルコ西岸部は、今日、地中海屈指のリゾート地として発展している。それと同時に、ポンペイに次ぐ保存状態と規模を誇るとされるエフェソスを筆頭に、多くの古代都市遺跡が残る、歴史的・文化的な観光地でもある。世界第8位の観光立国といわれるトルコのなかで、ビーチと遺跡というふたつの魅力を兼ね備えた地中海沿岸部には、毎年数え切れないほどの人々が訪れている。

 報告者は、2006年から2007年の一年間、英国リヴァプール大学考古学・古典学・エジプト学研究科(通称、SACE)にて研究に従事した。この間、SACE講師で小アジア考古学を専門とされるアラン・グリーヴス博士(Dr Alan Greaves)が指揮する、トルコ考古学エクスカーションに参加する機会に恵まれた。本発表では、報告者が撮影した写真を用いながら、エクスカーションの模様や自らの体験談(これには、報告者が2001年および2005年に個人的にトルコを訪れた際のものも含まれる)を報告する。

 エクスカーションは2007年6月11日から18日の8日間にわたっておこなわれ、トロス、クサントス、レトオン、パタラ、アフロディシアス、テルメッソス(現フェティエ)、オイノアンダ、カウノスといった都市遺跡を訪れた。これらの都市は、小アジア南西部のリュキア、およびカリアと呼ばれた地域に位置する。古代においては、これらの地域はアカイメネス朝ペルシア、ヘレニズム王国、ローマ帝国と、支配者を次々と変えながらも、クサントスを中心としたリュキア王国やマウソロスに代表されるヘカトムノス朝といった在地の藩属国家が栄えるなど、たいへん興味深い過去を持つ。本発表では、このような歴史的背景を踏まえつつ、遺跡の紹介をおこないたい。



     翻訳の文体――リウィウスを読みながら考えたこと――
                            岩谷 智 (千里金蘭大学)

The existing order is complete before the new work arrives; for order to persist after the supervention of novelty, the whole existing order must be, if ever so slightly, altered;
         ‐T.S.Eliot, Tradition and the Individual Talent

 古典を翻訳する場合―文学のみならず、歴史や哲学を含めて―気になるのは文体である。古典は決して古びない。しかし翻訳は時の経過とともに古びていく。それはいったい何故か。そして古びることを前提として、いかなる心構えで翻訳をするべきか。リウィウスを翻訳しながら考えたことを報告する。

 とはいうものの面妖で難解な「文体論」を展開するつもりはない。結局のところ、翻訳の文体を決めるのは、「この作家がもし日本語に精通していたら、どう表現するだろうか」を探ることにほかならないと考えているからである。そこには語彙や修辞のレベル、構文の単純さ(あるいは複雑さ)などのレベルをそろえるという作業が基本としてある。その上で、作品の「装い」あるいは特定の「雰囲気」をどう捉えていくか。文体を決めるプロセスを、リウィウス『ローマ建国以来の歴史』の序言冒頭を例にとりながら考えてみたい。

[1] facturusne operae pretium sim si a primordio urbis res populi Romani perscripserim nec satis scio nec, si sciam, dicere ausim, [2] quippe qui cum ueterem tum uolgatam esse rem uideam, dum noui semper scriptores aut in rebus certius aliquid allaturos se aut scribendi arte rudem uetustatem superaturos credunt. [3] utcumque erit, iuuabit tamen rerum gestarum memoriae principis terrarum populi pro uirili parte et ipsum consuluisse; et si in tanta scriptorum turba mea fama in obscuro sit, nobilitate ac magnitudine eorum me qui nomini officient meo consoler. (Titus Livius, Ab urbe condita PRAEFATIO 1-3)

   
                       (所属などは発表時のものです。)



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