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○第8回古代史研究会大会 報告要旨

       ローマ帝政前期北アフリカにおける都市エリートと文化
                         井福 剛(同志社大学大学院)


 古代ローマ時代の北アフリカの研究ほど、明白に近代の帝国主義と重ねられて語られてきた対象はないだろう。近代以降のいわゆるローマン・アフリカの研究はヨーロッパの帝国主義言説を色濃く反映してきたといえる。しかし、アフリカの国々が独立を迎えた1960年代以降、そうしたヨーロッパ中心の歴史観の読み替えが始まり、現在ではポストコロニアル理論の進展と相俟って、ヨーロッパ中心主義批判の中心的な対象となっている。

 本報告では以上のような研究動向を踏まえた上で、いかに文化が創造され、その創造過程が個別・具体的な政治的コンテクストの中でどのような意味を持っていたのかということについて分析を行う。そのために対象をトゥッガという北アフリカの一都市に絞り考察を行っていく。そうすることにより、トゥッガという場を共有する人々が、自身の置かれた環境の中で行っていた「実践」をより具体的に見ていくことが可能であろう。

 ローマの支配に入って以降、トゥッガにはカルタゴ・ヌミディア時代から続く市街地であるキウィタス(civitas)と、その南西に位置するカルタゴ植民市から移住してきたローマ人が居住するパグス(pagus)の二つのコミュニティが存在していた。この二重性は2世紀頃から弱まり始め、205年にトゥッガがムニキピウムになると解消されていくことになる。本報告ではトゥッガの政治状況が大きく変化していた2世紀から3世紀前半にかけて公共建設を盛んに行っていたローカル・エリートに焦点を絞り考察を行う。この時代に建設されたコンコルディア、フルギフェル、リベル・パテル、ネプトゥヌスに対する神殿群やカエレスティスの神殿が二重のコミュニティを有したトゥッガにおいていかなる意味をもっていたのかを考察することで、ローマン・アフリカにおける文化とローカル・エリートの関わりの一側面を示すことができるだろう。



        葬礼におけるプロト・アッティカ式陶器
               ――《エレウシスのアンフォラ》を中心に――
                           福本 薫(筑波大学大学院)

 紀元前7世紀アッティカの主要な陶器様式であるプロト・アッティカ式陶器は、生産量では同時代のプロト・コリントス式陶器に劣るものの、神話・叙事詩表現を積極的に取り上げたことで知られている。中でも《エレウシスのアンフォラ》(エレフシナ考古博物館)は、「ポリュフェモスの目潰し」図と「ペルセウスによるメドゥサ退治」図という二つの神話表現を有し、この様式の代表的作例である。このアンフォラは、1954年に発見された際には、内部に少年の遺骨を納めていた。そのため慣例的に、被葬者の少年と、二つの図像の「怪物退治」という性質が結びつけられ、これらの陶器画は被葬者を守護する役割を負っていたものと解釈されてきた。こうした解釈は、Osborne (1988)によってさらに先鋭化され、コンテクストを重視する図像解釈の可能性が示された。また近年では、Whitley (1994)によってプロト・アッティカ式陶器の、同時代の葬礼における役割が検討され、こうしたコンテクストに関する研究が主流となってきている。

 そこで本報告では、まずプロト・アッティカ式陶器の葬礼における用途や役割について概観し、その上で《エレウシスのアンフォラ》について行われてきた伝統的な図像解釈の前提を再検討したい。紀元前7世紀のアッティカでは、アテナイのケラメイコスを中心として、少数の上層階級に属する成人にのみ、墓標や奉納溝 (offering trench)を用いた壮麗な墓が営まれていたことがわかっている。またプロト・アッティカ式陶器は、こうした葬礼の諸相において、墓標や、奉納溝に用いられる奉納品といった多様な役割を担っていたと考えられる。そのため《エレウシスのアンフォラ》も、同時代の葬礼の営みの中に位置づけることによって、図像解釈へのいっそう明確な足がかりを得られるのではないかと考える。



        テミスティオスにおける「宗教寛容論」
                         西村 昌洋(京都大学大学院)


 本報告では、テミスティオスの弁論の分析を中心として、後4世紀半ばから後5世紀前半にかけての東方ローマ帝国における宗教寛容をめぐる言説とそのキリスト教化を考察する。

 後4世紀を代表するヘレニズム知識人の一人であるテミスティオスは、アリストテレス派の哲学者であり、かつコンスタンティノープル元老院議員、雄弁家、そして政治家であった。本報告で分析の中心となるのは、このテミスティオスによる「宗教寛容論」である。

 テミスティオスの「宗教寛容論」は、364年1月1日、ユリアヌスの死の直後に発表された、後継皇帝ヨウィアヌスのコンスル就任を記念するスピーチの中に含まれている。ここでテミスティオスが展開する寛容の言説は、同時代の他の「異教徒」知識人やキリスト教徒作家の言説と比べると、古代人らしからぬ驚くべき近代性を有する寛容論であり、宗教紛争が激化しキリスト教会の司教たちが不寛容な態度を強めていく中で、「異教徒」の哲学者がキリスト教徒皇帝の面前で宗教信仰の自由と寛容を説いたものとして、思想史研究においては高く評価されてきた。しかし、テミスティオスは同時代の帝国政策と深い関わりを持ちながら生きてきた人物であり、彼の弁論が政治的な色合いを帯びていることも事実である。本報告では、このテミスティオスによる「宗教寛容論」が後4世紀半ばの東方ローマ帝国という同時代の文脈において本来はいかなる機能を持っていたのか、そして、この見込みのある注目すべき「宗教寛容論」はキリスト教化の進行しつつある古代末期の世界において果たしてどのように受容されたのか、こういった点を論ずる。特に、本報告では、後5世紀前半コンスタンティノープルの教会史家ソクラテス・スコラスティコスの歴史記述におけるテミスティオスの「宗教寛容論」の受容と変容に注目し、「異教徒」とキリスト教徒の関係、そして、言説とレトリックのキリスト教化の問題を考察したい。



          古代ギリシアの“循環史観”について
                      大戸 千之(立命館大学名誉教授)


 古代ギリシア人の歴史観は循環史観と呼ばれるべきものであった、とは、一般向けの概説書で頻繁に出会う説明である。常識であるかのように書かれている場合も少なくない。

 よく知られているように、こうした説明は、歴史というもののとらえかたの変遷を、きわめて類型的に示そうとして、中世キリスト教世界の終末史観、あるいは近代ヨーロッパにおける進歩史観と対比するかたちでなされるのが普通である。古代ギリシアにおいては、歴史の循環が信じられていたのにたいして、中世キリスト教世界では、人間の歴史は直線的に進んで世の終末にいたり、最後の審判を迎える、と説かれ、さらに近代ヨーロッパにおいては、一方的な進歩を信じる楽観的な歴史観がひろまった、というわけである。

 ともあれ、ここではギリシア人の循環史観なるものに焦点をしぼりたい。いささか奇妙なことだが、上記のような説明において、循環史観とはどのような考えかたをさしているのか、そして、ギリシア人がそのような歴史観をいだいていたとみるのは、いかなる根拠にもとづいているのか、説明はほとんどなされないか、きわめて簡略にすまされるのが普通であり、しかも、それらは説明する人によって同じでない。

 この機会に、従来説明としてあげられてきた根拠を整理し、妥当性を検討してみたい。ピュタゴラス、アナクシマンドロス、ヘロドトス、トゥキュディデス、プラトン、クリュシッポス、ポリュビオスらの論が検討の対象となろう。

 いったい「歴史観」とは、現在と未来を見すえながら、過去をどう理解しようとするか、という考えかたの問題である。「時間論」「宇宙観」「運命論」「死生観」などは、その問題と無関係ではないが、区別して考える必要があろう。



   
                       (所属などは発表時のものです。)



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