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○第9回古代史研究会大会 報告要旨

ディオクレティアヌス、コンスタンティヌス帝期の公共奉仕義務
                             反田 実樹(同志社大学)


 ローマ帝政後期は、伝統的な公共奉仕(leitourgiai/munera)義務が慈善へ移行していった時代であった。「一部の富裕な都市参事会員は帝国官吏に逃亡し、残された中、下層の都市参事会員はすべて没落した(Lib., Or. XVIII, 146)」というリバニオスの弁論は、公共奉仕の担い手であった都市参事会員の逃亡と没落の問題について言及した有名な一節である。リバニオスが言及した状況は、都市参事会員が出生都市の公共奉仕の義務を遂行せず、負担を忌避する目的で免除特権が獲得できる帝国官吏の身分へ逃亡することを禁じた、テオドシウス法典やユスティニアヌス法典の条文に反映されている。このように都市参事会員が免除特権を獲得して公共奉仕の負担を忌避する傾向は、4世紀半ば以降に顕在化し、免除特権の濫用と評されている。
 ディオクレティアヌス帝期には、名誉を表す抽象的な言葉が公共奉仕の負担の軽減、免除を意味するものとして使用され始め、egregius、perfectissimusやclarissimusといった名誉を表す言葉が称号となり(名誉の称号化)、爵位となっていく。コンスタンティヌス帝期には、新首都コンスタンティノープルで元老院が設置され元老院議員身分を優遇する施策がとられた。
 公共奉仕の負担の忌避を禁じられた都市参事会員とは対照的に、医師(iatros/archiatri, medicus)は、ディオクレティアヌス帝期以前から減免税特権や公共奉仕の免除特権を付与されていた。さらに4世紀末には、perfectissimusやclarissimusの称号を持つ医師が史料に現れてくる。しかし、共和政、元首政期のローマの医師は社会的地位が低かったため、元老院議員身分や騎士身分の市民が医師になることは考え難いことであった。やがて6世紀前半になると、医師は活動の場を都市から教会付属施設のひとつである病院(nosocomium)に移していく。
 本報告では、なぜ医師は元老院議員身分や騎士身分に到達することが可能となったのか、ディオクレティアヌス、コンスタンティヌス帝期における名誉の称号化に着目し考察する。



ヘレニズム君主とパンヘレニック競技会
                          波部 雄一郎(関西学院大学)

 古典期以前から、オリュンピアや、デルフォイのピュティアで催された競技会は、パンヘレニック競技会としての地位を確立し、そこでの勝利が、地中海世界において特別な栄誉として認識され、勝者には名声とさまざまな栄誉が与えられたことは周知のことである。とりわけ、マケドニアの君主が、オリュンピアの競技会の戦車競争に参加し、優勝したことは、ヘロドトスらの記述から確認できる。このような事例は、ヘレニズム時代に入って顕著に増加し、君主による各地の競技会への参加は、数多くの競技会の優勝者を記録した碑文から明らかになっている。
 紀元前3世紀の後半になると、東方のギリシア都市が、自市の祭典での競技会にパンヘレニックな地位を与えようと奔走した事例が確認され、それによってパンヘレニック競技会が増加した。とりわけ、コスのアスクレピエイアと、マイアンドロス河畔のマグネシアのレウコプリュエネイアについて、両都市がそれぞれの祭典をパンヘレニックなものとするため、広範な地域に使節を派遣し、ヘレニズム君主や諸都市の承認と参加を求めた事例は、この現象を考える上で重要な手がかりとなる。こうした諸都市による、競技会のパンヘレニック化とその増加については、各地で体育や馬術、音楽などの各種競技会が相次いで創設されたことが背景としてあげられよう。
 本報告では、まず、ヘレニズム君主の競技会参加の事例を確認し、競技会における勝利の重要性と、それがもたらす影響について検討する。次にヘレニズム君主と競技会の優勝者とのかかわりを指摘し、君主が彼らをどのように利用しようとしていたのかについて明らかにする。そしてヘレニズム君主と、紀元前3世紀以降のパンヘレニック競技会の増加との関係、とりわけ君主がどのような役割を果たしたのかについて論じ、ヘレニズム君主とギリシア諸都市との関係を考える一端としたい。



古典期アテーナイの政治家――外交と社会変動――
                                佐藤 昇(東京大学)


 古典期アテーナイが構築した政治体制は民主政と呼ばれる。市民間の平等が是とされ、多くの市民がこれに参与していた。他方、この民主政に、一般の市民とは一線を画す影響力を行使する一部の有力者、政治的エリートが存在していたことは改めて指摘するまでもない。研究史は、これらエリートがいかにして政治の場で圧倒的影響力を行使できたのか、いわば彼らの「政治資本」について考えを巡らせてきた。祭祀を司る家系、経済的基盤、弁論術、こうした諸要素が中心的政治資本と見なされ、民主政の進展とともにその重みを変化させていった、そうした説も提示されている。門地に関しては、諸家一致して、政治資本としての重要性を民主政下に喪失したと看做している。他方、政治的エリート層の変動を考察する際、これまで決定的に軽視されてきた領域がある。外交である。貴族、僭主に関してこそ、国際的紐帯の重要性が指摘されるものの、民主政下の政治家に関してはその意義に十分な考察が及ぶことはなかった。こうした研究状況に鑑み、本報告では民主政下のアテーナイにおける国際的紐帯の政治資本としての重要性について考察を加える。他国の有力者とのクセニア関係、他国からのプロクセニア認定は国内の政治活動にどのような影響を与えたのだろうか。また政治資本としての重要性を認識されていたとすれば、それは政治エリート層の変動に対して、どのような意味を持ったのだろうか。多くの場合、こうした国際的紐帯は世代間で継承され、ある一定の家柄で継続的に保持されることになる。とすればこれは、民主政下にあって、政治的エリート層の変動を阻害し、固定化する要素となっていたのではないだろうか。あるいは、他の諸要素を考慮しつつ、諸事例に目を向けた場合、これとは異なる傾向を指摘できるだろうか。本報告は以上のような観点から、古典期アテーナイの政治的エリートの社会変動について考察を加えたい。



「不敗の太陽神Sol Invictus」の実体
                              井上 文則(筑波大学)


 3世紀以後のローマ帝国の宗教史において「不敗の太陽神Sol Invictus」の信仰が重要な役割を果たしてきたことは、教科書的な常識といっても過言ではないであろう。すなわち、シリア起源の、エラガバルス神と同一視されるこの神の信仰をヘリオガバルス帝(在位218〜222年)が国家宗教にしようと試みたこと、またアウレリアヌス帝(在位270〜275年)がヘリオガバルス帝の試みの失敗にもかかわらず、再びこの神を国家神に据えたこと、さらにはコンスタンティヌス帝(在位306〜337年)もキリスト教に改宗する以前にはこの神の熱心な崇拝者であったとされていることなどが、それに当たる。このようにローマの宗教史上、いわば自明の存在とされている「不敗の太陽神」であるが、近年、その存在を否定する、すなわち「不敗の太陽神」なる神格は、ローマの伝統的な「太陽神(Sol Indiges)」に「不敗の(invictus)」という称号が付いただけに過ぎないのであり、2世紀にシリアからローマに輸入された新しい神ではないと説く学説が現れて、注目されてきている。S・E・ハイマンス(Hijmans)が主張するこの説は、早くも新版の『パウリー古代史事典』では、R・ゴードン(Gordon)によって採用されている。しかしながら、報告者は、この新説には疑問を抱いている。とはいえ、旧説が正しいとも考えていない。そこで、本報告では、3世紀に流行したとされる「不敗の太陽神」とは、どのような神格であったのか、その実体に迫ってみたい。



ローマ帝国の衰亡と文明の衰亡
         ――アムステルダム国際歴史学会に参加して――
                               足立広明(奈良大学)


 ヨーロッパにおいて、ローマ帝国の衰亡は「文明の衰亡」そのものとして語られるのが通例であった。エドワード・ギボンの時代はもちろんのこと、現在オックスフォード大学古代末期センター(Oxford Centre for Late Antiquity)で指導的な役割を果たすブライアン・ワード=パーキンス(Bryan Ward-Perkins)の近著『ローマ帝国の没落』(The Fall of Rome, Oxford, 2005)にも、副題に『そして文明の終焉』(and the End of Civilization)と添えられている。Civilizationという言葉自体が市民とその都市生活を意味しているが、ローマ帝国の終焉は近代市民社会の模範とされる古典古代の自由な市民と都市の時代の終焉であり、「文明の衰亡」と同義語とされてきたのである。そして、その原因を探ることは、常に同時代的危機への警告として意識されてきた。
 しかし、ローマ帝国の衰亡とは果たして「文明の衰亡」と同義語として理解してよいのだろうか。また、「衰亡」を言う際の指標に問題はないのだろうか。ワード=パーキンスや同じく近年新たに衰亡論を唱えるリーベシュッツ(J.H.W.G. Liebeschuetz)らの見解は、ギボン以来の伝統的な衰亡史観がピーター・ブラウン以降の古代末期研究の台頭のなかでいったん消滅したかに見えた後で、再び提起されてきた。ゲルマン人侵入による西帝国の崩壊や東方におけるその後の都市の衰退など、否定できない事実を新しい古代末期研究は無視してきたのではないかとの疑問がその背景にはある。これらの疑問は起こるべくして起こったものとして評価されようが、それらの指摘が依拠する指標自体も現在では自明の前提とは言えない。帝国のインフラや古典古代的な都市形態を測定基準とする視点自体が問題なのではないのだろうか。本報告ではローマ帝国後半の「衰亡」にかかわる学説史を検討しながら、報告者なりの現時点での見通しを明らかにしてみたい。

   
                       (所属などは発表時のものです。)



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