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○第11回古代史研究会大会 報告要旨

ヘレニズム時代のアテナイにおけるギュムナシオン
                          波部 雄一郎(関西学院大学)


 パウサニアスは、2世紀のアテナイ市内の地誌を紹介する中で、アゴラの近くに「プトレマイオスのギュムナシオン」が存在したと述べている。このギュムナシオンは、いくつかの碑文史料において、プトレマイオンとして確認される。その名前が示す通り、紀元前3世紀に、おそらくプトレマイオス3世の援助によって建設されたとされている。
 プトレマイオンは、多くの研究者によって、プトレマイオス朝とアテナイの密接な友好関係を示すものとして理解されてきた。同時に、ヘレニズム時代に数多く確認される、王家によるギリシア諸都市への恩恵施与慣行の事例として扱われることも多い。ただし、プトレマイオンについて、アテナイ出土の碑文史料を検討すると、プトレマイオンには図書館が併設され、哲学や修辞学の講義が行われていたことが確認される。つまり、たんなる体育訓練施設としてのギュムナシオンとしてではなく、アテナイの文化全般において幅広い役割を果たしていた点が指摘できる。このようなギュムナシオンの役割と機能の変化は、都市の支配層であるエフェボイの教育状況や、彼らに求められるようになった資質が、どのようなものであったかを知る手掛かりとなろう。
 本報告では、碑文史料を中心にプトレマイオンについて考察を試み、ヘレニズム時代のアテナイの文化動向について明らかにすることを目的とする。考察の内容は大きく二つの点から構成される。ひとつは、プトレマイオンの所蔵図書目録から、アテナイ市民の文化動向を解明することである。紀元前2世紀末には、アテナイのエフェボイによって、例年図書館に図書が寄贈されることが慣例となっている。また、こうした図書がどのようにしてアテナイにもたらされたかという点にも着目し、文化人の人的交流と、それがアテナイのギュムナシオンに及ぼした影響についても考察を広げたい。



メロヴィング朝における「教会会議」とそのイメージ
    ――王・俗人による関与・参加の分析から――
                         立川 ジェームズ(立命館大学)

 現代においても行われている「教会会議」・「公会議」は、高位聖職者が集まり、宗教的な協議・決定がなされる会議として知られる。こうした宗教的会議の伝統は、ローマ帝国期にさかのぼる。
 ローマ帝国崩壊後の中世初期ヨーロッパにおいては、教会会議が王権と結びついて、いわゆる「宗教」に限定されない、政治・統治にも関わる多様な役割を果たしたことが指摘されている。ただし、ローマ帝国崩壊直後にガリアに成立した、メロヴィング朝(481−751年)については、王権・教会関係はぎこちなく、教会会議はもっぱら司教の自律的な会議とみなされてきた。「世俗」との関係が指摘されることもあるが、王・俗人有力者による教会会議の悪用や教会の堕落と関連づけられる傾向にあり、あまり積極的に評価されてこなかった。
 しかし、近年の研究成果によれば、メロヴィング社会において司教・教会は、王による支配を聖俗両面で支える要であったといわねばならない。そう考えると、「教会会議」の意義というのも、王国統治における王権と司教(権力)との相互関係の側面から捉えるべきであろう。そうすることで、教会会議が「教会」という限定的枠組みを超えた形で、当時の社会・政治においてどのような役割を担ったかがみえてくるであろう。
 こうした問題を念頭に、本報告では、王・俗人(有力者)による会議への参加に注目したい。従来、王・俗人の教会会議への関与は表面的なものとして看過されてきたので、史料の分析を通じてこの点を見直したい。また、王・俗人の関与・参加をどう描いているかという点で、史料の間にも差異が認められる。特に、ローマ帝国期以来の「会議録」と他の叙述史料との差異が顕著である。これは教会会議をめぐるイメージや理念の問題にも関わってくる重要な問題である。



レバノン共和国ティール市における碑文調査とその研究
                              奥山 広規(広島大学)


 フェニキア人の母都市として世界史上に名を残すティール(テュロス)は、ローマ・ビザンツ時代にも大いに繁栄し、フェニキア地域第一の都市として君臨していた。その繁栄は遺跡として残り、わが国も、京都大学や奈良大学を中心とする発掘調査・遺跡修復活動を通じて、都市郊外を中心に、当該期のティールを明らかにしつつある。
 報告者は、この調査隊に碑文担当として参加し、都市ティール全体に亘って碑文調査を行ってきた。それは、当該期のティールを碑文面からも把握するためであったが、近年の碑文研究の動向、①碑文を単なるテキスト(文字情報)のみならず、碑そのものが発信する情報(形態・文字・場所など:非文字情報)にも注目し、②両情報を、碑文を取り巻く社会的コンテクストに当てはめて総合的に碑文を検討すべきこと、を踏まえ、碑文の「非文字情報」の収集を意識していたためでもある。
 ただ、そのためには、まず、遺跡内に残る碑文の現状確認が必要であった。1975年から15年近くも続いたレバノン内戦とその後の混乱はレバノン全土に大きな傷跡を残し、ティールの遺跡・文化財も例外ではなかったのである。実際、ティールを代表する遺跡アル=バス(Al-Bass Site)のネクロポリスでも、破壊され無残に散らばった埋葬施設を見ることができる。このネクロポリスからは多くの碑文が発見され、ティール最大の資料群を形成していたが、それらは主として石棺や大理石プレート(納骨室の蓋板)に記されたものであり、遺跡内に散在していた。このような状況にあっては、碑文も大きな被害を受けたことが予想されたのである。
 遺跡内に現存する碑文の確認とその現状を精査した結果、当初の想定以上の成果を得た。すでに刊行されている碑文テキストの修正や再検討につながる知見を得た上、未刊行の碑文の発見にも至ったのである。本報告では、時間の許す限り、調査成果について述べていきたい。



コンスタンティヌスの凱旋門の《ハドリアヌスの円形浮彫り群》について
    ――犠牲式図像の伝統に照らして――
                           坂田 道生(千葉商科大学)


 マクセンティウス帝への勝利を記念して紀元後312年から315年の間に建造されたコンスタンティヌスの凱旋門を飾る浮彫り群は、元来、別の時代の複数の建築から取り外され、再利用されたと考えられている。中でも紀元後2世紀に制作されたと思われる質の高い8つの円形浮彫り群は、ハドリアヌス帝と関わりがある建築に由来するとされてきた。8つは、全て狩猟を主題とし、ハドリアヌスと家臣たちの狩猟への出発、猪、熊、獅子の狩猟場面、ディアナ、シルウァヌス、ヘラクレス、アポロへの狩猟後の犠牲式が表現されている。
 円形浮彫り群の図像解釈に関しては、ハドリアヌスの愛人アンティノオスの弔いと関連づける説、virtus(勇敢)とpietas(敬虔)が表されているとする寓意説などが提起されてきた。従来の説では図像系列を基にした詳細な検討がなされているとは言い難い。本報告では、特に犠牲式の図像伝統に焦点を当て円形浮彫り群の図像解釈について再検討を試みる。
 アウグストゥスからトラヤヌス治世に制作され、公的な記念碑に表された皇帝を執行者とする犠牲式図像10点を取り上げて比較検討をすると、円形浮彫り群にはそれ以前の犠牲式とは異なる以下の4つの特徴が認められる。
 第一に、ハドリアヌス治世以前の犠牲式に必ず表されたministri(儀式の助手)やlictores(先導官吏)などの犠牲式に参加したであろう助手や従者が表されていない。第二に、犠牲式の図像伝統では犠牲獣は生きた状態で表現されるが、円形浮彫り群ではすでに殺された状態で表現される。第三に、皇帝は通常トガを身に着けて犠牲式を行う様子で表されたが、円形浮彫り群では軍服と平服の中間の衣装を身に着けて表現される。第四に、犠牲を捧げる神は通常表されないが、円形浮彫り群では神像に対する犠牲式が表現されている。
 以上から、8つの円形浮彫り群の図像には、公的な犠牲式ではなく、私的領域における犠牲式が表現されていると発表者は考える。



初期キリスト教における殉教記録の改竄?
                                大谷 哲(東北大学)

 報告者はこれまで、ローマ帝国当局から有罪判決を受け、殉教者称号を得ながらも処刑されることなく生存した「生ける殉教者」を対象に研究を行ってきた。近年は生ける殉教者たちの一部が、初期キリスト教諸史料において個人名を抹消されている可能性に着目している。本報告ではこうした問題意識のもと、4世紀の教会史家カエサレアのエウセビオスが、177年に発生したルグドゥヌム迫害における生ける殉教者たちについて個人名の抹消を行っていたことを論じたい。何故ならば、この迫害で生ける殉教者となった者らについて、エウセビオスはその主著『教会史』中では匿名で記しつつ、彼の他の著作『古の殉教集成』にて彼らの名を詳述しているかに思われる記述を残しており、さらに当該の著作『古の殉教集成』は現存しないため、断片的に伝えられる当該著作のルグドゥヌム迫害での殉教者たちについての情報を整理し、可能な限りの再構成を行ってそこに生ける殉教者の個人名が記されていたかを考察する必要が生じるからである。
 そのため、本報告ではエウセビオス著『古の殉教集成』から派生したと思われる諸断片、すなわち、『ヒエロニムス殉教者暦』、『ベーダ殉教者暦』、トゥールのグレゴリウス著『殉教者の栄光に』48章、ガリア地方で編纂された諸受難録に収録されているルグドゥヌム殉教者リスト(Velser写本・Bruxelles写本の二系統に大別される)、これらを整理して『古の殉教集成』に記載されていたと思われるルグドゥヌム迫害における殉教者たちの記録の再構成を試みる。その上で、『教会史』において散見される、ルグドゥヌム迫害の殉教者たちに関する情報とこの再構成案を比較し、『古の殉教集成』に記されていた殉教者たちが如何なる最期を遂げたかを追跡したい。こうした作業を通じて、『古の殉教集成』はルグドゥヌム迫害の生ける殉教者たちの個人名を記してはいなかったことを論じ、その背景を考察することを目指す。



古代末期のキリスト教的歴史叙述における夢告、勝利、十字架の徴
   ――コンスタンティヌスとユリアヌスに関する事例を中心に――

                           中西 恭子(明治学院大学)

 キリスト教公認後のローマ帝国における教会会議議決や勅法では、夢告の解釈は占術の一種として理解されており、必ずしも推奨される行為ではなかった。再三にわたって占術の行使を禁じたコンスタンティウス二世は、夢の解釈をも禁制の対象とした(『テオドシウス法典』9.16.4)。
 しかし、キリスト教徒は夢告や幻視を信仰の眼に照らしてまったく無効なものであるとは考えていなかったようである。教会史叙述のなかにもそれらはときとして立ち現れる。ラクタンティウスが『迫害者たちの死について』で言及した、コンスタンティヌス一世の夢に現れた「十字架の幻」の挿話は最もよく知られた事例であろう。ナジアンゾスのグレゴリオス『ユリアヌス駁論』のほか、その言及を参照した五世紀のソクラテス・スコラスティコスおよびソーゾメノスらの『教会史』においても、ユリアヌス自身の棄教と宗教政策の失敗や、彼の統治下で圧迫されていたキリスト教徒の勝利を語るさまざまな予兆の挿話が語られ、十字架の徴の挿話もその一環として言及される。
 夢告や予兆の事件としての真実性は確証が困難であるが、著作家たちはキリスト教の勝利を主張する叙述のなかに夢告や幻視の挿話を事後預言的に挿入している。このことをどのように捉えるべきであろうか。古代末期は、これまでの時代にあまり問われることのなかった夢告の意義と有効性について、キリスト教側、「伝統的多神教」側を問わずさまざまな著作家たちが意識的に言及を行うようになった時代でもある。キリスト教側の歴史叙述に関わった著作家たちが、歴史上の事件に先立つ夢告や幻視のなかに神の意志を暗示する語りの有効性を何らかのかたちで意識していたとは考えられないだろうか。本報告では紀元後四世紀から五世紀にかけてのキリスト教側の歴史叙述にみられる、キリスト教の勝利を暗示する予兆や幻視、夢告の挿話とその機能を紹介し、夢告・予兆・幻視に対する著作家たちの態度を、特にコンスタンティヌスとユリアヌスに関する事例を通じて検討したい。



コンスタンティヌス大帝巨像をめぐって
                              豊田 浩志(上智大学)

 我が国では専門家を含めてまったくといっていいほど気づいていないが、来年はいわゆる「ミラノ勅令」発布1700年記念年にあたる。西欧においてはすでに2005年頃からコンスタンティヌス大帝がらみの催し物が目白押しで、現在もミラノで「Costantino 313」と銘打った展覧会が開催中で、来年秋にはローマで大規模な国際シンポジウムが予告されてもいる。この動向はおそらく彼の死没記念年の2037年まで波状的に継続されるのだろう。
 本報告では、この機会を捉えて飛躍的に深化しているコンスタンティヌス研究の到達点をもっとも端的に示すものとして、コンセルヴァトーリ博物館中庭に展示されている彼の巨像諸断片をまず検証する。
 かの巨像の諸断片のうち7断片は、1486年にフォロ・ロマーノ北東端に位置する「マクセンティウスないしコンスタンティヌスのバシリカ」の西アプシスから発掘され、残り2断片は1951年に西アプシスの真後ろの大理石集積所から発見された。関連で考察対象に加えるべきもうひとつの右手は、1744年にカンピドリオ丘の麓の壁面構造内で発掘されていて、断片総数は現在10を数えている。上記諸断片の素材の成分分析に基づく出土地特定の最新情報を口火とし、さらに本巨像を模した一種の贈答品ないしスーヴェニアと想定されえる青銅製小彫像(天秤の錘)への着目から、かの有名な凱旋門の浮き彫りや、いわゆるstaurogram問題へと波及的に見直しが展開しているダイナミックな現況を報告し、若手の研究参画を促したい。
 なお、本報告は本年7月7日の上智大学史学会月例会「315年打刻Ticinum造幣コンスタンティヌス貨幣をめぐって」、10月28日の広島史学研究会大会西洋史部会「312年10月28日のコンスタンティヌス」での口頭発表に後続するものである。


   
                       (所属などは発表時のものです。)



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