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○第12回古代史研究会大会 報告要旨

リュキアにとっての連邦とローマ
   ――古代における連邦認識の視点から――
                              岸本 廣大(京都大学)


 古代ギリシアの連邦研究において、報告者が「連邦」とよぶ政治組織を当時の人々がどのように認識していたのか、という問題は避けて通れない。古代に連邦を意味した用語「エトノス」、「コイノン」、「シュンポリテイア」に着目する研究もあったが、そのどれもが連邦以外を意味する用語からの転用であったため、そのようなアプローチには限界があった。それとは異なるアプローチで連邦の認識に迫った研究として、G. A. Lehmann [2001] Ansätze zu einer Theorie des griechischen Bundesstaates bei Aristoteles und Polybios, Göttingenがある。彼は、比例代表制を連邦が他とは異なる特質とみなし、その制度を同時代の人々が認識していたのか、というアプローチをとった。その結果、特にポリュビオスには連邦を独自の政治組織とみなす認識が存在したと結論付けた。しかし、ポリュビオスがアカイア連邦をポリスに例える有名な記事(Polyb.2.37.11)の存在からは、その認識が確固としたものであったとまでいえるかは疑わしい。
 報告者は、そのような認識の萌芽を認めつつも、古代において連邦を独自の政治組織とみなす認識は結実しなかった可能性を想定する。そして、その結実を妨げた要因として、連邦の認識の萌芽がみられたポリュビオスの時代に、対立を通して多くの連邦を支配下に組み込んだローマの存在に着目する。ただし、ローマとの対立とそれによる連邦の解体が単純に連邦の認識の妨げとなったとは断言できない。というのも、リュキア連邦は、その時期にローマの保護下での自由を獲得し、後43年の属州化に至るまで基本的にはローマとの友好関係を維持したからである。そこで、本報告ではこのリュキア連邦とローマの関係に焦点を当て、加盟ポリスや連邦に属する人々が自らの連邦をどのように認識していたのか、そして、その認識にとってローマはどのような影響を与えたのか、考察を試みる。具体的には、同時代の人々がリュキア連邦に期待した役割と連邦制度の枠組を属州化の前後で比較する。



ローマ時代のティール郊外における墓地について
                              奥山 広規(広島大学)

 フェニキア人の中心地として名高く、前10~前8世紀に全盛を誇ったティール(古代名テュロス)は、ローマ・ビザンツ時代にも繁栄し、属州首都や大司教座都市として、東地中海地域の政治・経済・宗教的中心地の1つといえるほど重要な地位を占めていた。ところが、その重要性に反して当時のティールについては、不明確な点が多い。重要といえども地方都市の故に史料から得られる情報はどうしても限られる上、現代の都市とその下の厚い砂の層によって古代の都市部が隠されており、史料を補う発掘調査が行われ難いためである。
 このような状況に対し、救いの手を差し伸べているのが日本隊によるティール郊外の調査である。ティール郊外には19世紀以来の調査成果があるが、体系的な調査が行われたのは近年のことであった。その結果、郊外自体の研究はもとより、郊外を視野に入れて都市部を補う研究の準備が整いつつある。
 本報告では、以上のことを踏まえ、郊外に存在する遺跡の中でもローマ時代の墓地に注目し、その性格や展開を分析することで、当時のティール社会研究の一助としたい。



ローマン・アフリカにおける宗教と文化的アイデンティティ
                              井福 剛(同志社大学)


 近代以降のローマン・アフリカの文化に関する研究は、「ローマ化」を中心に語られてきた。しかし、近年、ポストコロニアル理論、カルチュラル・スタディーズの影響もあり、そうした一面的な文化の解釈に対する再考が進展してきたことは、もはや周知のことである。こうした研究によって、「ローマ文化」というカテゴリで一括りにされ見過ごされてきたローマン・アフリカにおける文化の多様性、多面性が明らかにされてきたのである。
 このような文化研究で中心的対象となるのは、いわゆる「ローマ的」なコミュニティにおける「ローマ風」の公共建築物や宗教などである。そこでは、どの程度ローマ文化が浸透していたのか、あるいは現地文化の残存によってどのような特殊性が見出せるのか、ということが中心的な問題となってきたように思われる。つまり、古代文化の代表的なイメージを形作ってきた公共建築物や公的な宗教が研究の対象とされ、「ローマ文化」や「現地文化」といった大きな括りを基準として、それに則しているのか、あるいは逸脱しているのか、といったことが問題になってきたのである。
 しかしながら、ローマン・アフリカにおける文化はこうした「大文字の文化」だけで構成されていたわけではない。人々が日常生活の中で日々実践してきたミクロな文化も、ローマン・アフリカの文化を形作る重要な要素である。こうしたミクロな文化は史料の残存状況が良くない場合が多く、その全容を明らかにするのは困難ではあるが、公共建築物や公的な宗教と同様にローマン・アフリカの文化として位置づけていくことが必要である。
 本報告では、カルタゴ周辺地域を中心に、ミクロな文化の一つとしてdefixionesなどの「魔術的」な宗教実践を見ていく。そうすることで「大文字の文化」とは表面上、異なる様相を示す人々の日常的宗教実践を、同じローマン・アフリカの文化として位置づける。



帝国の過去と「ローマ人らしさ」
                             西村 昌洋(立命館大学)


 4世紀末年から5世紀初めにかけての時期は、ローマ帝国に入ってきた外民族すなわち「蛮族」に対する排他的な態度が表面化した時期として知られている。400年のコンスタンティノープルにおけるゴート族の殺戮や、408年の西帝国におけるスティリコ処刑後の同盟部族の虐殺がその顕著な例である。これは「ゲルマン人アレルギー」ないし「排他的ローマ主義」と呼ばれている。このような蛮族蔑視の念が実際の行動として表れたのは確かにこの世紀転換期においてである。しかし、蛮族がローマ人より劣った存在であることを自明視する差別意識はこれよりずっと以前から確認できるものであり、378年のアドリアノープルでの敗戦後に表面化したというわけではない。むしろ、こうした蛮族蔑視の念が何によって生まれてくるのか、そこからの脱却がローマ人にとってなぜ困難だったのかを説明する必要があるのではないだろうか。そしてそれは、ローマ人自身の自己認識や思考様式のあり方、すなわち「ローマ人らしさ」それ自体と関係があるように思われるのである。
私たちに残された後期ローマ帝国についての諸史料の中でも、ローマの皇帝/帝国の威信やイデオロギーと関連するもの、つまり「帝国的」な言説を見てみると、そこではローマの過去の栄光や偉大さを引き合いに出しながら現在について語る、という傾向が見られる。こうした語り方は、ローマの偉大な過去を想起・確認させると同時に、今のローマ人もそうした過去の延長上にいるのだという自意識を強化するであろう。蛮族蔑視はこうしたローマ人の過去認識にとって不可分の構成要素だったのではないだろうか。つまり、蛮族蔑視はローマ人の自己認識や「帝国意識」の産物であり、このことが差別意識からの脱却を困難にした根本的な原因ではないかと思われるのである。本発表では史料の分析をもとにこの仮説の検証を試みたい。


   
                       (所属などは発表時のものです。)



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