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○古代史研究会第14回大会

フロンティヌス『ローマの水について』における「都市の健全性」

堤 亮介(大阪大学)

古代ローマにおける「公衆衛生」の問題は、近代的公衆衛生との連続性/類似性、諸々のインフラ設備が持っている衛生上の機能、そして「当時の疫学的知識は『公衆衛生』なる発想を可能にし得たか」という様々な論点を抱えている。とりわけNuttonの一連の研究は、医学的言説においては「公衆衛生」的発想が極めて希薄であると結論しており、こうした理念を古代の言説に見出すことを容易ならざるものとしている。
 このような問題意識の下、本報告では医学的言説を離れ、法的・政治的史料のなかに健康を公的に扱う意識を探る。とくに、後一世紀末から二世紀初頭の水道監督官であったフロンティヌスと彼の著書『ローマの水について』を、健康が公的な問題として取り扱われている事例として取り上げ、それを医学的知識や社会状況との関連から論じる。水道監督官としての職務が関わるという「都市の健全性」とは何なのか、水道行政は具体的にどのようなかたちで「健全性」を改善させたと認識されているのか、それが本報告の主題となる。
 本報告ではまず、当時環境の身体に対する影響がどのように認識されていたのかを医学的テキストの分析を通じて明らかにする。また、こうした知識に基づく健康な都市計画という理念が、ウィトルーウィウス『建築書』などに現れていることを指摘する。次に、『水について』において「都市の健全性」を構成するとされる二要素が、都市環境としての水と大気であることを明らかにしながら、環境と身体を巡る理論的議論と比較し、公的文書としての『水について』の特殊性を明らかにする。
 そこから浮かび上がってくるのは、当時の有力者による都市の不健全性、すなわち水の不適切な利用と悪臭を伴う大気への明晰な認識と、それを改善可能な物として見なす彼以前の言説とは異なる視座である。そしてさらに、「都市の健全性」が政治的問題となるに至る経緯を、当時の政治的状況や統治理念との関連で論じたい。


3世紀の法典外史料における皇帝立法への言及」

山下 孝輔(京都大学)

23世紀の皇帝の勅法の中で、史料上、最多を占めるのは勅答の形式である。勅答とは、特別な官職にない一般の帝国民――市民権の有無は問われない――からの請願書や、各地の行政・司法に携わる属州総督のような役人や都市当局からの書簡に応じて、皇帝が与えた回答のことである。勅答の文言は、一般的な法規則を打ち立てるようなものではなく、請願書や書簡によってもたらされた個別具体的な事案に対する皇帝の意思表明にとどまる。勅答が現存する23世紀の勅法の過半を占めているという事実は、この時代の皇帝政治が、臣民の要求に応じる受動的かつ個別的な性格を有していたことを示唆している。しかし、現存史料における勅答の多さは、古代における碑文建立や法典編纂の際に勅答が有用と見なされたことを示しているのみであって、実際に、23世紀に勅答が支配的であったことを示してはいないという指摘が、先行研究において既になされている。そのため、単純に現存する数量に基づいて、この時代の皇帝立法の性格を説明するのは、史料の残存状況から予想されてしかるべき歪曲を無視することになる。そこで、本報告では、史料上の数的優位とは異なる観点から、この時代の勅答と皇帝立法を理解することを試みる。
 この目的を達成するために、ユスティノスの『第一弁明』とテルトゥリアヌスの『護教論』に見られる、皇帝トラヤヌスとハドリアヌスがキリスト教徒の扱いに関して小アジアの属州総督に与えた勅答を、主に取り上げる。ユスティノスとテルトゥリアヌスの記述は、両者がどのような文脈で皇帝の勅答に言及していたかがわかるだけでなく、小プリニウスの書簡集に基づいて、トラヤヌス自身の有していた勅答の理解との比較検討が可能だからである。

「ローマ帝政前期の名望家支配に関する一試論

――オスティアのエグリリウス家の歴史――」

本間 俊行(北海道大学)

ローマ帝政前期の都市名望家支配に関する研究は、1980年代から2010年頃まで、おもに「都市エリート」研究のなかで取り組まれてきた。この研究は、都市内部の支配構造を精緻に分析する一方、ローマ帝国の統治構造が名望家支配に与えた影響については議論を進展させてこなかった。
 本報告では、帝政前期の名望家支配に関する一試論として、都ローマの食糧供給拠点として繁栄した港町オスティアのエグリリウス家(Egrilii)を取りあげ、その歴史をつぎの3点から考察する。第1に、同家構成員のプロソポグラフィ、第2に、参事会員身分から元老院議員身分へ昇格した過程にみられる特徴、そして第3に、その過程で形成された人間関係である。
エグリリウス家は、1世紀末までオスティアの参事会員層に属し、二人委員やウォルカヌス神官を代々輩出してきた。2世紀初頭までに元老院議員身分へ昇格すると、その第一世代は元老院議員の経歴を辿る一方、オスティアでも要職を占めた。第二世代にはアフリカ・プロコンスラリス総督を輩出し、同属州に痕跡を残している。
エグリリウス家の社会的上昇の過程で注目されるのは、オスティアやイタリアの都市名望家や元老院議員との間に緊密な関係を形成したことである。エグリリウス家は、オスティアの名望家アキリウス家に養子を出し、元老院議員第一世代の母プラリア・ウェラをとおして、元老院議員に属するアッリウス家(Arrii)やラルキウス家(Larcii)と親族関係を築いた。エグリリウス家は、元老院議員の親族関係を築くことで、中央政界における地歩を固める一方、オスティアでも権勢を誇った。また、諸家族の構成員がオスティアの社会生活に加わった形跡も見出すことができる。
以上の知見から、帝国の統治構造のもとで形成された人間関係がオスティアに入り込み、その結果、都市参事会を中心とする名望家支配が変質したことを展望として示す。


「「供犠を行う哲人皇帝」ユリアヌスの主題と古代末期における

そのキリスト教的変奏・再考」

中西 恭子(東京大学)

ユリアヌスはキリスト教徒に対して組織的弾圧と強制改宗を試みたわけではないが、巧みにその分断をはかった――このような見解はユリアヌスの事績に関する基準史料となるアンミアーヌス・マルケリーヌスをはじめ、宗教的帰属を問わず5世紀中葉までにユリアヌスの治世を論じた著作家によるユリアヌス像に程度の差こそあれ看取されよう。アンミアーヌスはまた、ユリアヌスの供犠への傾倒を「敬虔さよりも神々に対する過度の畏れ」と評した。キリスト教系著作家によるユリアヌス像とその治世の描写は、この印象をさらに強調するものである。ヨアンネス・クリュソストモス『殉教者バビュラス講話』やアウグスティヌス『神の国』、キュロスのテオドーレートス『ギリシア病の治療について』などにみられる、乗り越えるべき過去の宗教に回帰する「供犠を行い、神託を恃む異教徒皇帝」として象徴化されたユリアヌス像はその典型であろう。
キリスト教著作家によるユリアヌス像の定式化の嚆矢は、ナジアンゾスのグレゴリオス『ユリアヌス駁論』である。グレゴリオスはユリアヌスの事績に関する情報を、宮廷医師であった弟カイサリオスから得ていたという。『ユリアヌス駁論』は、「よきキリスト教徒君主」となるべく育てられたユリアヌスが「魔術師」たち(イアンブリコス派新プラトン主義者)に遭遇し、秘儀への参入を通して供犠の執行の重要性に覚醒し、キリスト教に故意に無理解と敵意を向ける「教会の敵」となる経緯を描く。グレゴリオスはここで、ユリアヌスのいう「ギリシア人の宗教」が、現実の帝国におけるギリシア語話者の在来の宗教的慣習の地域的多様性を看過して、ギリシア語そのものを聖なる言語と見なして「哲学」的再解釈を介して無毒化された神話を倫理の源泉とする思弁的な仮構であったことを看破する。
 グレゴリオスが言及した「哲人王になるべき資質をもちながら哲人皇帝となることに失敗した皇帝」としてのユリアヌス像はソクラテス・スコラスティコスの叙述に継承される。他方、アクィレイアのルフィヌス以後の教会史家はユリアヌス治下の状況を描写するとき、聖域と祭祀の回復をはかる「異教徒」の集団とキリスト教徒との凄惨な抗争や、殉教者崇敬を含む礼拝の場の保持を訴え「教育令」への抵抗を示す信徒・聖職者らの行動の勇敢さの図式を強調する。「異教徒」宗団の非実在性とギリシア語話者の在来の宗教的慣習の多様性に関する挿話は彼らの叙述からは剥落し、ユリアヌスの想定した「ギリシア人の宗教」を集合的に支持する「異教徒」が存在したかのような印象を与える。
古代末期は在来の神話的伝統の再解釈の時代でもあった。この過程でユリアヌスはいかにキリスト教の公敵として描かれるようになったのだろうか。本報告では5世紀中葉に至る教会史叙述を中心に、キリスト教系著作家における「供犠を行う皇帝ユリアヌス」像の主題とその変容の諸相を検討する。



                       (所属などは発表時のものです。)



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