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○古代史研究会第15回大会

「ヘレニズム期エジプトにおけるギュムナシアルコス職」

波部 雄一郎
(日本学術振興会特別研究員・大阪大学)

 都市において市民の体育訓練機関であるギュムナシオンは、ヘレニズム時代になると諸都市において設置されるようになり、青少年及び市民の教育施設として発展した。同時にギュムナシオンの監督官であるギュムナシアルコス職もギリシア諸都市で設置される。従来はギュムナシオンの管理や青少年の育成・監督が、ギュムナシアルコスの主な責務と考えられてきた。しかし、近年では諸都市の公的な顕彰決議などの考察により、ギュムナシオンの修復や維持経費の支出などの恩恵施与によって、ギュムナシアルコス職は都市において重視され、一定の影響力を有する存在と評価されるようになった。
 ヘレニズム時代におけるギュムナシオンとギュムナシアルコス職の拡散は、ギリシア本土や小アジアにとどまらず、エジプトにおいても碑文史料や出土パピルスからも確認できる。紀元前3世紀末から紀元前2世紀にかけて、エジプトの各地でギュムナシオンが建設されるとともに、ギュムナシアルコス職が設置されている。しかし、ギュムナシオンを扱った先行研究において、エジプトの事例は除外され、考察の対象となることはほとんどなかった。というのも、プトレマイオス朝治下のエジプトでは、アレクサンドリアやナウクラティス、プトレマイスを除くと都市化しなかったので、ギュムナシオンは村落部に建設されることが多く、ギリシアや小アジアの諸都市の事例とは事情を異にすると考えられたからである。
 だが、ヘレニズム時代のエジプトのギュムナシアルコス職は、多くは地域や王朝の有力者が兼任しており、地域社会に一定の影響力を有していたという点では、ギリシア諸都市と同様であると思われる。本報告ではヘレニズム時代のエジプトにおけるギュムナシアルコス職について考察し、ギュムナシアルコス職の役割を明らかにするとともに、プトレマイオス朝のエジプト支配に位置づけることを目的としたい。


ドイツ南部地域におけるケルト貨幣とその宗教性

九鬼 由紀(関西学院大学)

 本報告は、古代「ウィンデリキアVindelicia」と呼ばれたドイツ南部地域のケルト社会において、外来の文化としての「貨幣」がどのような機能を有したかを、「宗教」との結びつきの点から検討するものである。
 ケルト世界への貨幣の到来は紀元前3世紀、マケドニア王フィリッポス2世によるスタテル金貨の模倣がその製造のはじまりである。その後紀元前2世紀より、ケルト独自の貨幣が多く製造されるようになった。この時期は、防壁ある居住地「オッピドゥム」がケルト世界で数多く造られ、その社会が「都市的」なものへと変容する頃と重なる。考古学資料からは、貨幣が積極的に作られ、部族間や地域を越えて交換・流通するものとして、都市的な社会のシステムにある程度組み込まれていたことが窺える。
 しかし、貨幣が活発に製造・使用されたのとほぼ同時期に、流通のサイクルから外れて未使用のまま、人の手の届かないところに納められた貨幣が大量に存在することもまた事実である。「埋蔵貨Coin Hoards」と呼ばれるそれらは、ドイツ南部地域においては紀元前3世紀から2世紀に年代づけられるものが多い。先行研究には、「埋蔵貨」が宗教的な意図をもって埋納されたものであり、この点からケルト貨幣そのものに宗教的な役割が持たされていたと述べるものもある。けれども、必ずしもそうであったと断言することはできず、ケルト貨幣と宗教との結びつきについては依然不透明である。
 本報告では主にこの「埋蔵貨」に光を当て、@ケルト貨幣に宗教的な役割が持たされる余地があったのか、A宗教的な役割があったならばそれはどのような形で表現されたか、という問題について、発掘報告資料を用いて考察する。@については「埋蔵貨」の出土場所や貨幣の種類の分析を、Aについては「埋蔵貨」の貨幣とそれ以外の出土貨幣との比較をそれぞれ行ない、ケルト人が貨幣をどのようなものとみなし、用いていたかを知る足掛かりとしたい。


「ローマ的弁護の終焉をめぐって
       ――カッシオドルスによる描写を題材として――

粟辻 悠(関西大学)

紛争の当事者はなにゆえに、その事情を知らないはずの部外者に、法廷弁護の依頼という形で助けを求めるのか。もし現代についてこう問われたならば、その解答は、一般人と「弁護士」の間に横たわる、法学識の構造的格差に求められよう。しかし、そのような構造を少しなりとも備えた法廷弁護の歴史は、西洋でも12世紀頃までしか遡れないものと考えられており(Brundage: 2008)、古代ローマ世界において存在した弁護の営みとの間には断絶があるとされている。
 では、古代ローマ世界の弁護とはいかなる性質のものであったのか。伝統的には、共和政後期においてギリシア由来のレトリックを身に付け、詭弁をも辞さず活躍したとされる法廷弁論家が注目を浴びてきた。法知識ではなく、あらゆる手段を用いての他人の説き伏せが本質視されたのである。そして、自由な弁論が制限されていく帝政期以降は既に、彼ら弁論家による弁護活動の重要性は低下していったと考えられてきた。
 しかし20世紀末以降、帝政期の弁護活動も依然としてレトリックによりつつ、法廷における重要性を保っていたとする主張が有力になっている(Crook: 1995、帝政後期を中心としてHumfress: 2007等)。これらは意義深い貢献であったが、弁護の終焉がそうして延長されることで、新たな疑問も生じてきている。すなわち、弁護の営みが「自由な弁論」の衰退をも耐え抜いたというならば、それを最終的に断絶させた要因は何なのかという問いである。この問題は、古代ローマ世界における弁護の本質の解明にも繋がろう。
 本報告は、その問いに応答すべく、「ローマ後」の東ゴート王国における法廷弁護をめぐる状況を、カッシオドルス『雑纂Variae』から読み解く試みである。その際には、当該史料の性格に関する近年の研究動向を踏まえつつも(例えばBjornlie: 2013)、主として個別具体的な記述の分析を旨としたい。


「ローマ帝政前期における帝国西部の都市民会
             ――東部との比較を通して――

新保 良明(東京都市大学)

 ローマ帝国は地中海を内海とする巨大な領域を支配したが、東部と西部では差異を抱えていた。その最たる座標軸は都市文化の有無にあったろう。つまり、東部は古代ギリシアに代表される都市文化の伝統を先天的に保持したのに対して、西部は同様の文化を持ち合わさず、その結果、諸史料は帝国側が西部に都市制度の整備を上から強要したという画像を提供してきた。この東西の根本的違いを踏まえた上で、本報告は古代における民主政の表徴と言うべき「民会」を巡り、東西の比較を試みたい(科研費・基盤研究(C):研究代表者「ローマ帝国の民会の東西比較に関する研究」平成2628年度、課題番号26370875)。
 先ず、東部に関して見る限り、民衆が選挙のみならず、決議などを介して帝政前期においても能動的役割を果たしていたことがプリニウスの書簡やディオ・クリュソストムスの演説などから確認される。さらに、議員史家ディオ・カシウスに至っては民会を騒擾の温床と否定的に捉え、それを危険視した。そして碑文も民会の活動実績を伝えてくれる。
 ならば、西部も同様の事情を呈するのであろうか。差し当たり、既知の都市法の条文に民会関連の情報がどの程度含まれているのかという点を確認しておきたい。属州バエティカに知られる4つの断片的都市法の中には細かな政務官選挙手続きを教える条文がある一方で、民会決議のような民衆の政治参加を前提とする条文は全く伝わっていない。
 これらに鑑みれば、民衆は有権者として選挙に関与したとしても、それ以外の分野に関しては民会を通じての意思表示がままならなかったという可能性が残る。では、都市の自治は参事会の名望家集団に握られたままで、民衆は何の存在感も示せなかったのか。本報告では、碑文に現れるex consensu populi, suffragia populi, ex postulatione populi といった表現に着目することで、帝国西部の民衆の政治参加を考察することにしたい。



                       (所属などは発表時のものです。)



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