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○古代史研究会第3回春季研究集会

シンポジウム
「古代ギリシア・ローマ世界における衰退と衰退叙述


シンポジウム趣旨              
                    南川高志(京都大学

                         

 西洋古代史研究においてたいへん重要な研究テーマである「ギリシア・ポリス世界の衰退」と「ローマ帝国の衰亡」については、1980年代から研究のあり方や解釈に大きな変化が生じた。古くは、ギリシア人のポリス世界は前4世紀後半にマケドニア王国に征服されて終焉を迎えたと解釈された。またローマ帝国も、3世紀の危機を経て成立した後期ローマ帝国時代に変質・衰退し、4世紀後半に生じた民族移動の嵐の中で同世紀末には東西に分裂、西方の帝国は5世紀後半についに滅んだ、と説明されてきた。しかし、古代ギリシア史研究の進展は、ポリスそのものの定義を変え、ポリス世界の「衰退」よりもヘレニズム時代やローマ帝国支配下への連続性を強調するようになった。ローマ帝国についても、後期ローマ帝国の国家と社会に関する解釈に大きな修正が加えられただけでなく、そもそも「ローマ帝国の滅亡」という政治的な出来事を重視せず、2世紀から始まるゆっくりとした「ローマ世界の変容」を、社会史や宗教史などの領域で捉えようとする研究が学界の注目を集めるに至ったのである。

 こうした学界の動きを受けて、私は20085月に島根大学で開催された第58回日本西洋史学会大会において、古代ギリシア史専攻の橋場弦氏と共同で、小シンポジウム「西洋古代史における『衰退』の問題」を開催し、「ギリシアの衰退」と「ローマ帝国の衰亡」の問題を取り上げた。その成果は、シンポジウム後の意見も取り入れて、学会誌『西洋史学』第234号に「フォーラム」記事として発表した。しかし、このシンポジウムののちも、西洋古代史における「衰退」をめぐる議論はさらに進展を見せている。欧米でも多くの論著が発表され、わが国でも広範囲にわたる学界動向の整理もなされて、問題の理解が深まるとともに、国際的な独自性を備えた研究も登場してきた。そこで、近年の国内外の研究動向を踏まえて、改めて「衰退」の問題を取り上げ、広く意見交換をおこないたいというのが、本シンポジウム企画の意図である。

 これまでの研究では、当然のこととはいえ、ギリシア史についてもローマ史についても、歴史的世界で実際に「衰退」があったのかどうかが、おもに問題になってきた。そして、史資料を博捜・駆使しつつ、何がどのように変化したのか、衰退したのかどうかについて、実証レヴェルの研究が積み重ねられてきたのである。だが、「衰退」という事態を認定する基準・指標は何であるのか、決して明確な規範や合意は築かれていない。ドイツの研究者フランツ・アルトハイムは、65年も前の論文で、衰退と危機をやや単純に区別し、危機はその後克服されうるものだが、衰退は二度と克服されないものとしている。しかし、この区別とて、事象の解釈としてそれほど明確で厳密な規範ではない。

 そこで、本シンポジウムでは、問題の原点に立ち返り、史実のレヴェルを念頭に置きながらも、「衰退」の認識、そしてその表れである言説や叙述の形成過程に注目する。モンテスキュー、ギボン以来、近現代の歴史家によるローマ帝国の衰退叙述などは数多くなされてきたが、古代の当事者たちによる衰退の叙述や言説を対象とした検討をここでは試みる。ギリシア・ローマ時代にあって、衰退叙述/言説はいかにして生み出されたのか、考えてみたいのである。

 本シンポジウムは、3部より構成される。第1部では「過去と現在を比較する」と題して、衰退を認識する前提や契機が問題とされる。衰退は、先行する時代や社会との比較でまずは成立する。どのように衰退の認識や叙述が形成されるのか、この点を問題として改めて捉えようと試みる。

2部は「衰退叙述/言説の構築をめぐって」と題して、その時代・社会において人々が自ら「衰退」をどのように認識し表現したかを解明する。ここでは、当該社会に生きた人々の自己認識や他者理解の両者を含みながらも、まずは人々が主体的に作り上げていく衰退認識や衰退叙述を問題にしたい。

最後の第3部は、「衰退叙述/言説と他者」と題して、衰退の認識や叙述/言説に他者がどのように関わったのかを考察する。第2部が人々の主体的な営みを論じるのに対して、第3部は、衰退叙述/言説の形成が、他者との関係や他者からの影響とどのように繋がっていたのかを考察しようと試みる。さらには、他者の観察による衰退叙述の形成を探る研究も、この点に関する有効な作業となろう。また、ここでは第2部と同様に「自己認識」や「他者理解」が問題検討の重要な鍵を握ることになるため、ギリシア人、ローマ人のアイデンティティーやその変容が叙述/言説形成にどのようにかかわったかも検討しなければならない。 

人々が生きた社会に差異を読み取り、時の流れに画期を設けて過去の世界の変化を説明することは、歴史学の最も基本的でかつ重要な作業の一つである。しかし、それは歴史認識のあり方と直接繋がる、学問の本質にかかわる作業であるがゆえに、決して容易でないし、また当然異論があり得る。リアルな歴史事象の研究が容易に定説形成に結びつかず、論争があちこちに存在することは、この問題の実証的研究の難しさを証明している。本シンポジウムの観点は、史実の実証的研究の重要性を認識しつつも、それをやや相対化して、叙述/言説の観点から考えてみようとするものである。こうした試みは、歴史学界の動向から見れば、言語論的転回の議論の経験を踏まえ、また「表象」や「記憶」を扱う歴史学研究の良き要素を取り入れる作業といえるかもしれない。いずれにせよ、難題に対して、新しい観点から、これまでにない問題解決のための糸口を見つけようとする試みである。 

「ギリシア・ポリス世界の衰退」と「ローマ帝国の衰亡」に関する研究については、個別には無数といってよいほど様々な議論・討論がなされてきたと思いますが、両者を合わせて検討し、しかも叙述/言説のレヴェルで論じる取り組みは、海外の学界でも類例を見ないのではないかと思います。この稀な取り組みについて、シンポジウム最後の全員討論で、参加の方々のご意見を広くうかがえればたいへん有り難く存じます。

どうぞよろしくお願いいたします。

基調報告要旨

1部 過去と現在を比較する    
基調報告「ウァレンス水道橋の完工年代について
―ローマ帝国の衰退と「新首都」コンスタンティノープルの発展―」

                            南雲 泰輔(山口大学)

 

トルコ共和国の最大都市イスタンブール市内に屹立するウァレンス水道橋(トルコ語名:ボズドアン・ケメリ)は,一般には後期ローマ帝国時代の皇帝ウァレンス(東部正帝在位364378年)の治世に完工し,往時のコンスタンティノープル市の繁栄を伝えるモニュメントとして説明される。しかしながら,ウァレンス水道橋を含むコンスタンティノープル市の水道整備については史料状況が断片的であって,未解決の点が少なくない。

そのうち特に重要と考えられる論点は,4世紀後半におけるコンスタンティノープル市の人口増加の象徴と目されてきたウァレンス水道橋の完工年代にかんする問題である。現在,我が国ではこれを378年とする説明が多くみられるが,この年はウァレンス治世最後の年であり,したがって同帝率いるローマ軍がゴート族と交戦し大敗を喫したハドリアノポリスの戦いの年である。それは,ハンニバル率いるカルタゴ軍がローマ軍を包囲し殲滅せしめたカンナエの戦い(前216年)に匹敵すると,E. ギボンが評した大敗北であった。

かかる状況下におけるウァレンス水道橋完工の意義は,同帝治下の帝国東部における政治的中心がコンスタンティノープル市ではなくアンティオキア市であった一事に照らしても,従来の一般的説明のごとく「新首都」の発展を示すインフラ整備の,単なる一構成要素として取り扱うのみでは十全には理解し難い。しかも,先行諸学説では378年以外にも完工年代について複数の提案がなされてきたが,近年,エディンバラ大学の考古学者J. クロウを中心としたコンスタンティノープル市水供給システムにかんする考古学調査によりさらに別の仮説が示されるなど,検討の余地がなお残されている。

本報告では,1)ウァレンス水道橋はいつ完工したのか,2)皇帝不在のコンスタンティノープル市におけるインフラ整備の意義は何か,という二つの問題を,史料中に表現されたインフラに対する公共意識に着眼しつつ考察することを通じ,後期ローマ帝国時代における「衰退」認識の生成過程について検討を行なう。


2衰退叙述/言説の構築をめぐって 
基調報告「ローマ支配下のコイノン描写
 ―コイノンから考えるギリシアの『衰退』―


                     岸本廣大(三重大学非常勤講師

 

本報告の目的は、古代ギリシア世界で衰退叙述/言説が構築される過程について、前2世紀のコイノンに関するポリュビオスを例として提示することである。全体の趣旨説明にもあったように、「ギリシア・ポリス世界の衰退」の捉え方は古典的な学説から大きく様変わりした。ポリスの自治や制度、市民の活動がヘレニズム時代あるいはローマ時代まで継続していたという認識は、少なくとも研究者の間では一般的であろう。古典期よりも活発であったとの主張も、もはや突飛なものではない。前4世紀以降の「ギリシア・ポリス世界」は「進展」していて、「衰退」してはいなかった。

 一方、ギリシア本土の諸ポリスやカルタゴ、ヘレニズム諸王国がローマの支配下に入ったという意味で、ヘレニズム時代には共同体の政治的な「衰退」や滅亡が局所的にみられたこともまた歴史的な事実である。また、古典的な学説に影響を与えたとされる当時のギリシア認識、つまり古典期をギリシアの最盛期として称揚する認識の形成は、そのローマによる東方進出と支配によって促されたとされる。こうした個々の共同体の実際の「衰退」や、それに基づくギリシア世界の「衰退」認識は、先述の古代ギリシア世界の「進展」とどのような関係にあるのだろうか。

 この問題に対し、本報告では前2世紀のコイノン(特にアカイア人)を対象とする。もちろんそれは、当時のコイノンが「衰退」といえる状況にあったからである。例えば、アカイア人のコイノンは前146年のアカイア戦争でローマに敗れ、その支配下に置かれた。そのような「衰退」とみなしうる状況は、当時の人々にどのように捉えられたのか。

 ここで検討するのがポリュビオスである。彼は、アカイア人のコイノンに加盟するポリス出身であり、それに強い関心をもつと同時に、周知のごとくローマに人質として渡り、ローマの覇権確立を論じる著作を残した。そんな彼の著作における、アカイア人のコイノンの衰退叙述/言説のあり方やその特徴の考察は、従来のポリス中心の「衰退」の議論の枠組みを広げる可能性を有する。

 さらに、ポリュビオスの、コイノン以外に対する衰退叙述/言説との比較も行いたい。例えば、カルタゴやスパルタの「衰退」はどのように叙述されたのか、それはコイノンの衰退叙述/言説とどのような共通点や相違点を有するのか。この問いかけを通じて、衰退叙述/言説に関するポリュビオスの独自性が明確にされるとともに、コイノンに限らない、ギリシア世界の衰退叙述/言説へと議論が波及することが期待される。

3衰退叙述/言説と他者    
基調報告「ローマ帝政期におけるアテネの『復興』と衰退叙述

                       桑山由文(京都女子大学

アウグストゥス帝期より後のローマ帝国では,小アジアやシリアが経済的に繁栄していったが,その一方,ギリシア文化発祥の地であるギリシア本土(属州アカイア)については,前5世紀頃の「栄光に満ちた」過去の時代と比較し,「衰退」していたということが繰り返し語られていた。小プリニウスの『書簡集』の記述(第824)は,ギリシア本土を「真の純粋なギリシア」としながらも,それは過去の栄光にすぎず,今では本土はその姿を失ってしまっており,アテネやスパルタといった都市についても,思わず軽蔑してしまいそうな状態にあると述べていることで,夙に知られている。1世紀後半のウェスパシアヌス帝は,ネロ帝がギリシア本土に与えていた自治権を奪い,この地を属州に戻したが,その際,ギリシア人がもはや自由が何たるかを忘れてしまったと,小プリニウス同様に酷評していたことをパウサニアスは伝える。

これは,支配者であるローマ人だけの認識ではなかった。プルタルコスやディオン・クリュソストモスといった,同時代の帝国東部(ギリシア文化圏)の哲学者や弁論家たちもローマ人と同じかそれ以上に,いにしえのギリシア本土を理想視しており,同時代のギリシア本土が衰退しているという感覚を強く有していた。都市有力者層に属していた彼らギリシア知識人たちは,首都ローマの政治支配層とさまざまな形で交流を深めており,両者は互いに思想的影響を与え合いながら,ギリシア本土に対する衰退観を養っていったのである。中でも,アテネについては,その過去の「栄光」が大きなものであるがゆえに一層,同時代を「衰退」と見なす傾向は強かった。

このような衰退言説は同時に,アテネの現状を憂い,「栄光」を回復させようという動きへとつながってもいった。そのひとつの現れが,2世紀前半のハドリアヌス帝によるアテネへの大規模な関与であった。彼の時代,アテネは急速に「帝国文化首都」へと変貌させられていったのである。それでは,こうした衰退言説の隆盛とそれに則った「復興」の裏側では,具体的にどのような事態が進行していたのか。本報告は,このような視点から,後1世紀から2世紀初頭にかけて,「衰退」と「復興」の狭間のアテネとギリシア本土に焦点をあて,検討する。


  


                       (所属などは発表時のものです。)



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