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○古代史研究会第16回大会

4世紀アテナイをとりまく海上交易活動と商船拿捕

杉本陽奈子(京都大学)

 4世紀のアテナイは、多くの海上交易商人たちが訪れる交易の中心地であった。特に食糧供給が深刻な課題となっていたアテナイにとって、穀物の輸送を担う商人たちは極めて重要な存在であり、それゆえアテナイでは様々な方策によって商人の誘致が試みられていたことが知られている。しかし、このような保護を受けて海上交易活動が活発に行われていた一方で、海上交易商人たちの航海には様々な危険が伴っていた。とりわけ、海賊や他ポリスによる商船拿捕が頻繁に行われる中で、アテナイは艦隊を派遣して商船保護を行うことで、そのようなリスクに対応していたとされる。
 ところが、アテナイの海軍は必ずしもすべての商船を保護することができるわけではなかった。加えて、史料からは、アテナイの将軍やトリエラルコスたちが商船を拿捕する事例も読みとることができるのである。そうであれば、いかなる状況下で商船の拿捕あるいは保護が行われたのかについて、立ち入った検討を行う必要があるであろう。このことは、海上交易活動が、いかなる形でポリスの軍事活動や国際関係とかかわっていたのかを明らかにすることにもつながると考えられる。
 そこで、本報告では同時代の商船拿捕にかかわる事例を網羅的に検討することとする。具体的には、まず、商船拿捕・保護という行為自体についてのポリスの態度に着目し、拿捕・保護を行う側と、その対象となる側との関係を4種類に分類したうえで分析を行う。続いて、商船拿捕後にとられた対応に目を向けることで、ポリス側と海上交易商人側との利害関係の差異について考察を行う。これらの分析をとおして、当時の東地中海域において商船拿捕が行われていた状況が、ポリスと海上交易商人のそれぞれにとっていかなる意味を有するものであったのかについて明らかにすることが、本報告の最終的な目標である。

古典期アテナイの法廷におけるanepsiōn paidesの解釈

      ――遺産相続と殺人の事例の比較を通じて――

内川勇海(東京大学)

 古典期アテナイにおいて、anchisteiaと呼ばれる親族集団は、亡くなった親族に対する優先的な遺産相続権と、親族が殺害された場合に殺人犯を訴追する義務を有していた。研究者たちはanchisteiaという親族集団が包摂する親族の範囲について長い間議論してきた。Isae. 11[Dem.] 43は、anchisteiaとはanepsiōn paidesまでの範囲の親族集団を指すと述べているが、anepsiōn paidesの意味については、当時においても現代の研究においても、「いとこの子(first cousins once removed)」と「はとこ(second cousins)」の間で解釈が対立してきた。ただし近年の研究では、古典期アテナイにおいて、この用語の厳密な定義は存在しなかったという立場をとる研究者が多い。しかしながら、彼らはこれらの用語(anchisteiaanepsiōn paides)およびこれらに類似した用語に言及している法史料を相互に関連付けて論じてこなかった。これらの法史料から、ドラコンの殺人法においてはいまだ厳密な定義を獲得していなかったこれらの用語が、ソロンの葬送関連法および遺産相続法においては、より厳密に定義されていたことが分かる。また従来の研究者たちは、遺産相続訴訟と殺人訴訟における故人(被害者)と訴訟当事者(原告)との親族関係についての傾向の差異に着目してこなかった。両者の比較から、勝訴した側が明確な利益を得る遺産相続訴訟の方が、煩雑な手続や敗訴時のリスクによって原告に大きな負担を強いる殺人訴訟よりも、より遠縁の親族が関わっていたことが明らかになった。これらの分析結果は、アテナイにおいて法律用語は常に厳密に定義されるとは限らず、判決を左右する場合に初めて法律用語の意味が解釈されたことを示唆している。他方で、遺産相続訴訟である[Dem.] 43がドラコンの殺人法に言及していることや、前5世紀末の司法改革を経た前4世紀のアテナイ法の一貫性を考慮に入れるならば、同一の用語を用いているが、異なる目的のために立法された複数の法律は、前4世紀においては相互に参照されつつ解釈されたと考えることができる。

第二次マケドニア戦争前夜・戦中のローマ指導層

                                                                      伊藤雅之(鎌倉女子大学)

本報告の目的は、ローマの指導層内部において、同国を二度目の対マケドニア戦へと踏み切らせ、かつその成功裏の運行においても主導的な働きをした集団の存在を明らかにし、開戦前夜および戦争初期のローマにおける同集団と、彼らとは一線を画す大スキピオを中心としたグループの角逐に注目しつつ、前者がローマの東方への急速な進出の始まりに及ぼした影響を論じることにある。当該戦役期に活動したローマの指導者に関しては、これまでにも例えば勝利の立役者にして、イストモスにおける「ギリシアの自由」宣言をはじめとした、ローマの東方進出最初期の軍事・外交において中心的な役割を果たした、フラミニヌスに注目した研究が数多くある。また彼が若年にしてコンスルに就任したことや、ギリシアにおける指揮権延長、さらに同地における和平が元老院において比較的容易に認められたことなどから、彼を支える有力な支持者集団が存在したのであろうということも、近年の研究者たちは既に論じている。しかし彼は本質的には、本報告が問題とする、第一次マケドニア戦争末期からその姿を現し始める対マケドニア開戦派の忠実なメンバーだった。そして同時期のローマの内外における活動は、公職や公務の獲得、およびギリシア人たちとの関係強化や、フラミニヌスのような同志を引き立てることなどを通してグループとしての勢力拡大を進めた同集団と、同時期にやはり一派の形成に動き、第二次ポエニ戦争勝利の立役者として得た影響力の強化に努めた大スキピオとの関係に大きく規定された。こうした対マケドニア開戦派の伸長と連動したローマの東方進出の始まりと、その推進あるいは抑制に動いた個々のローマ指導層の者たちやその集合の関係を、いくつかの外交案件やイタリアにおける植民事業などを取り上げつつ論じ、特定の個人ではなく、いわば大勢の顔が見える、拡大期ローマの像を描くことが、報告者の目指すところである。

元首政期小アジアにおける都市間紛争と有力者の関与

     ――ディオ・クリュソストモスの弁論を手がかりに――

西又 悠(神戸大学)

 元首政期ローマ帝国が安定した統治を実現できた要因の一つとして、帝国内の諸都市が帝国行政の要として機能していたことがあげられる。領土の広大さに比して、行政網の整備が遅れていたローマ帝国にとって、地域の秩序維持、徴税その他諸々の業務を負担する都市は帝国の広域行政に欠かせない存在であった。
 しかしながらギリシア・小アジア地域に注目すると、この地域では、帝国支配下においても、都市間の相互不和が顕著であり、時には何かしらの紛争や衝突に発展する事例が広く知られている。かかる都市間の対立・紛争が、帝国の安定にマイナスの影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。
 この都市間の対立・紛争について、従来の研究は、「称号」をめぐる争いの性質や、ローマによる仲裁、裁定といった点に注目してきた。その一方で、都市が主体的に事態を解決するためにどのような行動をとっていたのか、すなわち紛争解決に至るプロセスについては、あまり具体的に研究されておらず、近年ようやく“foreign-judge”“inter-state arbitration”についての紹介的な論考が発表されている。したがって対立・紛争の解決を都市側の観点から分析することは従来の研究を補強する上でも重要な作業といえる。
 このような紛争解決プロセスについて重要な情報源となるのは、都市民会で行われた弁論である。とりわけ1-2世紀に活躍した弁論家ディオ・クリュソストモスの弁論は、比較的多くの情報を提供してくれる。そこで本報告では、このディオをケーススタディとして彼が関わった都市間紛争における、都市内部の動向やそこにディオがどのように関与したのかを検討する。

特別講演

帝国の記憶と遺産

      ――4世紀のアテナイ――

中井義明(同志社大学)

ここ数年、私は「記憶」を研究テーマとして来ている。記憶をテーマとしたのはしばしば現在が過去の記憶を正当化の根拠としてきたからである。ご承知のように安全保障理事会の常任理事国が国際連合で絶大な力を持ち、その力を独占しているのは第二次世界大戦での勝利に貢献したという記憶故である。南シナ海に点在する島嶼の領有権をめぐる問題など、領土問題に関して当該諸国は古文書を引っ張り出し、歴史的正当性という記憶を盾にして領有権を主張している。過去にまつわる記憶を利用するのは現代国家だけではない。ペロポネソス戦争直前、スパルタの民会でアテナイの使節はペルシア戦争でのアテナイの絶大な貢献という記憶を根拠にその帝国を正当化したのである。このように過去から現在に至るまで人類は断片化した過去の記憶を利用してきた。その理由は、歴史に比べて記憶は可塑性に富み、加工し易いということに求められる。
 まず手始めに近現代ギリシアにおける記憶の場としてアクロポリスに着目した。2012年に国民意識の形成に果たしてきたアクロポリスの役割を論じた。2015年にはマラトンの戦いをめぐる記憶を論じ、記憶の記念碑化や歴史にまとわりついて創られていく記憶を扱った。今年の11月にはアテネのケラメイコスにあるラケダイモン人の墓をスパルタ帝国の記憶の場として考察し、その記憶を形作り残存させていった歴史的環境について論じた。これらは何れも同志社大学人文科学研究所主催の公開講演で行ったものである。
 そして今回は前4世紀初頭における前世紀の帝国の記憶を探ってみたい。帝国の記憶がペロポネソス戦争敗戦直後の前4世紀初頭のアテナイの人々にどの様に育まれ、どの範囲で共有されたのかを調べ、この問題設定が課題として有効であるのかどうかを計ってみたいと考えている。対象はコリントス戦争までのアテナイに絞られる。つまり今回は研究成果を報告するというよりは、その見通しを探求してみるということに留まる。
 404年のアテナイの降伏は帝国(アテナイ帝国)の解体のみならず民主制の崩壊をも結果した。民主制は内戦の結果回復されるが、帝国は回復されることはなかった。対外的にはスパルタの覇権に従い、積極的に外交政策を展開することはなかったのである。ところがコリントス戦争前夜になると突然アテナイによる前世紀の海上支配が史料に現れてくる。この間、アテナイの歴史は国内の党派と階層間の対立の歴史として語られてきた。問題は何故アテナイの海上支配が正当な権利として主張されるようになったのかが明らかにされていないということにある。サモス民主派との決議碑文(IG II² 1)とタソス民主派との一連の決議碑文(IG II² 6, IG II² 24, IG II² 33, cf. IG XII 8, 263)をベースに海外の民主派や亡命者とアテナイとの関係性に着目し、これら民主派との関係が敗戦によっては消滅しなかったことを指摘し、帝国の遺産として残され、強く意識されていたことに注目したい。またアテナイを中心とする帝国時代の民主派ネットワークが残存していて、そのネットワークを通じてアテナイがその外交的影響力を行使していたことも論じてみたい。その際クセニア(賓客関係)やプロクセニア(名誉領事制度)、アネル・アガトス(善行者)顕彰を通じて帝国時代の記憶が求められ、アテナイとの密接な関係の記憶が当事者間で共有され、決議文の中で強調され、碑文に刻み公表されるというかたちで記憶の共有が試みられるのである。そしてこれらがアテナイの海上支配要求の背景にあったと考えている。
 ここ何年間か百周年記念として第一次世界大戦が注目されてきている。第一次世界大戦が記憶から語られ始め歴史にまとめられるのに対して、旧アテナイ帝国は歴史から始まり記憶に至るという逆のプロセスを前4世紀に歩んだとも言えよう。


                 (所属などは発表時のものです。)



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