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○古代史研究会第17回大会

古典期アテナイにおける住民の社会的名誉とその表現
     ―冠、タイニアに注目して ―

篠原道法(立命館大学)

古代ギリシア世界では、冠やタイニアが生活の様々な場面に登場する。これらは、墓参りの持参品、シュンポシオンや宗教儀礼の装飾品、そして何よりも人々の誉れを讃えるための記念品として利用された。
 当然のことながら、冠やタイニアが持つかかる性質のゆえに、双方の内とりわけ冠の扱いは、社会における名誉をめぐる規範の展開と密接に関わっていた。例えば、アテナイ社会では前4世紀中葉から、市民についても個人の名誉やそれを追求する精神であるフィロティミアが社会的に再評価を受けるようになるが、こうした中で同時期には、市民個人を対象に冠の授与の条項を盛り込み、そして場合によっては冠のレリーフさえも伴う顕彰碑文が散見されるようになる。加えて、アイスキネスとデモステネスによる法廷での争いが象徴するように、民会や法廷で「冠の布告」の扱いがしばしば議論の遡上に載った。 
 それでは、冠の扱いが示唆するような、上述の社会的名誉をめぐる規範にたいして、アテナイの住民たちは各々どのような態度を取ったのだろうか。社会規範の内実に迫ろうとするならば、かかる観点からの考察が必要であるように思われる。また住民各々の態度について理解を深めるには、民会や法廷などの公の場で示された言説だけではなく、私的な場面での人々の想いにも耳を傾けねばなるまい。そこで今回、こうした人々の想いを明らかにするための資料として注目したいのが墓碑である。というのも、アッティカの多数の墓碑に冠やタイニアの表現が確認されると同時に、それらの内のいくつかは明らかに被葬者の社会的名誉のシンボルとして機能しているからである。
 以上の点を踏まえて、本発表では、アッティカの墓碑に見られる冠やタイニアの表現の分析を中心に、社会的名誉をめぐる規範にたいするアテナイ住民の態度について検討する。これにより、古典期アテナイにおける社会規範の内実の一端を明らかにしたい。



アッタロス朝ペルガモンの独立時期考察

柴田広志(佛教大学

 小アジアに栄えたアッタロス朝ペルガモン王国は、ヘレニズムの“showpiece”Ager, 2003として著名である。とりわけ、今日でもベルリンのペルガモン博物館で見ることができる「大祭壇」は、その代表的な建築であろう。エウメネス2世(位:前197159)が建設したこの祭壇は壁面を飾る浮き彫りで有名で、祭壇上部は「テレフォス・フリーズ」、基部は「ギガントマキア・フリーズ」と呼ばれる浮き彫りが飾る。特に後者は、ペルガモンがガラティア人を撃破して正当性を確立した過程の検討にあたり、重要である。
 しかし、この祭壇より前の時期の史料は、祭壇に示されない事情を我々に伝える。OGIS 273-9Austin 2nd, 231)は、エウメネス2世の父、アッタロス1世(位:前241~197)が前237年ごろに王と称した最初期の碑文で、その碑文は「ガラティア人と(セレウコス朝から反乱した王弟)アンティオコス・ヒエラクスに対する戦闘」の勝利を記念した、奉献碑文である。この碑文の解説で、オースティンは「アッタロスはセレウコス朝王族に対する勝利ではなく、ガラティア人に対する戦勝によって王と称した」と指摘するが、なぜアッタロス1世は、ガラティア人と並べてアンティオコス・ヒエラクスの名前を記したのだろうか。他方、後に書かれたポリュビオスやのストラボンの記述では、ガラティア人に対する勝利のみ特筆され、アンティオコス・ヒエラクスに対する勝利は消えてしまっている。この背景には、如何なる事情があるのだろうか。
 以上のような疑問に基づき、本報告はアッタロス朝のセレウコス朝からの独立時期を検討することを目的とする。おもにセレウコス朝との関係に基づき、アッタロス朝の動向を考察する。



偽マリウス事件と『ユリウス・カエサル』

                                                                  米本雅一(同志社大学)

44315日、元老院議場でC. ユリウス・カエサルが暗殺される。この約1ヵ月後、C. マリウスの孫を名乗るマリウス(史料では、本名はAmatius あるいは、Herophilus とされている)なる人物が処刑される。この二つの死の結びつきが本報告の対象である。
 カエサルの死後、問題となったのは、彼の死をどのように捉えるかということである。カエサル暗殺を実行した側は「カエサル=僭主」とし、自らを「解放者」として提示することで、その行動の正統性を主張した。他方、カエサル派は偉大な政治家の死であり、暗殺者たちは「殺人者」であって、処罰を受けるべきであるという立場にたった。このカエサルの死の解釈をめぐる議論は、カエサルの死は偉大な政治家の死であるが、暗殺者の罪を問うことはしないという、カエサル派と暗殺者側の妥協で決着がついた。
 しかし、この問題はカエサルの葬儀の際に行われたM. アントニウスの追悼演説によって再燃する。アントニウスはそのなかでカエサルの死を悲劇として演出し、暗殺者に対する民衆の怒りを喚起した。それにより、民衆による暴動を引き起こすこととなる。その後、カエサルの死をめぐる問題は当初の妥協案にしたがって落ち着くものの、前444月になって事態が変化する。それが、先に述べた偽マリウスの登場である。彼はカエサルが火葬された場所にモニュメントをつくり、そこに民衆たちが参拝するようになる。このような事態をアントニウスは問題視し、民衆を扇動した罪で捕縛、処刑を実行する。
 本報告では、この偽マリウス事件を中心にカエサルの死後に起こる彼の記憶化について検討する。論点となるのは、カエサルの記憶化の過程における都市民衆の果たした役割である。上述のように、カエサルの記憶化の過程においては、都市民衆の動向がその後の政治行動に影響を与えている。したがって、この偽マリウス事件は共和政から元首政への移行期における都市民衆と政治の関わり方の一側面を描き出すものといえる。


Decline and Concord in the action
 of M. Aemilius Lepidus (cos. 78 B.C.)
   


カルロス・エレディア=チメーノ(Carlos Heredia Chimen

 (京都府立大学共同研究員/日本学術振興会外国人特別研究員)


Lucius Cornelius Sulla (cos. 88, 80 a.C.) builds a new Republican system, because of his victory in the civil war, supposing the configuration of an intimidation context. However, it is well-known that he retires from the government and dies shortly after. Marcus Aemilius Lepidus (cos. 78 B.C.) uses this exceptional reality to try to remove the new regime, but his figure and action are generally underestimated in most of our evidences. Indeed, under authentic decline-narratives, the historical context is explained on the basis of a chronical στασις, which takes place at that critical time for the Sulla's regime. This paper seeks to analyze the idea of the "decline", whose concept is attributed to his figure and action, in order to find out what kind of values our sources find, especially the concord, as well as its connection with the transgression of the system.  
    Thereby, an analyze of all the literary sources in regards to that historical context allows us to understand the reasons. In this sense, it is observed a constant "decline", linked not to the newly established regime, but to Lepidus and his action. This indicates that the transgression of the Sulla's regime has been assumed and normalized, due to most of our literary sources see in the new system the existence of a concord, unimaginable in the previous warlike periods. Certainly, any action designed to war is reviled. In this way, this concord is desired because it recalls the appeased present in which our authors write, such as Livy, Appian or Plutarch. The construct of a decline-narrative focuses on Lepidus and his action, but not on the nature of the new regime, based on repression, except for the atypical Sallust's logic. 
    Furthermore, the adjectives used to value Lepidus are enormously partial. The most illustrative is that of turbulentus, just because the Sulla's regime has already been assumed, both by its present and by the sources influenced by his propaganda. Therefore, any enemy of this regime supposes a threat to the concord and stability. The idea of the "decline" is appreciable linked to Lepidus and his action, which imply the arrival of instability, breaking with Sulla's concord. In short, the deeply negative vision is based on this instability and on a general conformism towards the new system's transgression. Peace and concord are shown as the only way to end the "decline", even if it means the acceptance of an exceptional regime as Sulla's.



2018年度オスティア・グラフィッティ調査成果報告

奥山広規(岡山理科大・広島商船高専 非常勤講師)

調査協力:ゲイル・エドワード(広島大学文学研究科博士課程前期)

豊田浩志(上智大学名誉教授)

オスティア・アンティカ遺跡日本調査隊は、20172020年度科研費B先端光学機器によるオスティア・アンティカ遺跡・遺物の文字情報調査」(代表:豊田浩志 上智大学名誉教授)20182021年度科研費Aポンペイとオスティア:古代ローマにみる建築術の総体としての都市と技術の大衆化」(代表:堀賀貴(九州大学教授)の助成のもと、古代ローマ時代における庶民の生活実態に迫るべく、2018年度も現地調査を行った。その中でもグラフィッティを担当とする報告者は、827日から912日にかけて調査を行い、本報告はその成果提示である。
 それはまず7の遺構Caseggiato di Diana(I, III, 3-4)Sacello delle Tre Navate(III, II, 12)Casseggiato degli Aurighi(III, X, 1)Terme dei Sette Sapienti (III, X, 2)Domus di Giove e Ganimede (I, IV, 2)Domus del Tempio Rotondo (I, IX, 2)Casa a Giardino(III, IX, 4)(後三者は昨年度の再調査))で行った確認調査によって、既知グラフィッティの再確認のみならず、いくつかの知見(所属不明グラフィッティの遺構同定や従来の判読の修正)を得ることができたこと、そして、確認調査に際して17点の新出グラフィッティ(文字グラフィッティ10点、図像グラフィッティ7)の発見である。さらには、日本西洋史学会第68回大会小シンポジウム「『見えざる人々の探し方』-庶民史構築のために」(於 広島大学、2018520日、報告者は、「グラフィッティから見るオスティア―現地調査成果を中心に―」を担当)での質問を受け、調査遺構のうちSacello delle Tre Navate(III, II, 12)Casseggiato degli Aurighi(III, X, 1)については調査によって得られた知見から遺構の性格やグラフィッティの書き手に、その考察からは昨年度調査したCasa a Giardinoの機能や書き手にも踏み込みたい。
 なおグラフィッティ研究には、考古学、建築学、地理学、そして壁画やグラフィッティモチーフの観点から美術史などとの連携が重要で、そのためにチームを組んで現地で議論するのであるが、前提として極めて広範な歴史知識が不可欠であり、来聴の皆様からのご教授、ご助言等々をいただければ幸いである。




                 (所属などは発表時のものです。)



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