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○古代史研究会第18回大会

『アッティカ誌』におけるディオニュソス到来伝承とポリスの歴史

竹内一博(大阪市立大学研究員)

    アッティカの地域共同体であるデーモスやポリス内のサブグループは、それぞれのミクロコスモスの中で「文化的記憶」を形成するメディア(碑文、奉納品、建築物など)を蓄積し、文化的実践(供犠、祭儀、劇競演など)を行っていた。同じことはポリスについても言え、ポリスというマクロコスモスの枠組みにおいて形作られる文化的記憶がアテナイの人々によって共有されていた。
    その一方、前5世紀末から前3世紀中頃にかけて、主にアテナイ人によってアッティカ地域の編年史、すなわち『アッティカ誌(Atthis)』が著された。アテナイの神話時代から作者の同時代までを対象とした単線的な歴史叙述である「アッティカ史叙述(Atthidography)」は、作者によるスタイルの違いはありつつも、アテナイを中心とした傾向が見られる。さらに、地域の神話伝承や記憶は『アッティカ誌』に取り込まれていくプロセスの中で、いわゆるポリスとしての「アテナイ性・アテナイらしさ(Athenian-ness)」にあわせた側面を付与されるようになる。つまり、ポリスにとっての単一の「アテナイ性」を作り出すために、書き換えがなされてきたと言える。
    では、このような重層的な特徴を持った「アテナイ性」は、どのような構造になっているのか。また、重層的な過去や記憶は、どのように単一のポリスの歴史として変容していったのか。このような観点から、本報告では、ディオニュソスのアッティカ到来伝承に焦点を当てて検討する。フィロコロスを中心とするアッティカ史叙述断片には、ディオニュソスの到来に関して「地域の英雄」と「ポリスの王」という異なる要素が現れる。また、アッティカのデーモス碑文からは別の地域の英雄の伝承もうかがえる。アテナイ人がどのようにディオニュソスの到来を捉え、その神域や祭祀をポリスの歴史に位置づけていたかを明らかにしたい。



ディオドロス・シクロス『歴史叢書』におけるテルモピュライの戦いの位置づけ

酒嶋恭平(エディンバラ大学大学院)

    前480年夏、スパルタの王レオニダスと麾下7000のギリシア軍は、ギリシア中東部ボイオティアに位置する山と海に挟まれた隘路テルモピュライにて、200万を超えるペルシア軍と激突した。ギリシア軍は少数ながら二日間ペルシア軍の猛攻を防いだが、ギリシア人内通者の情報によって迂回路の存在が明るみになると、ペルシア大王クセルクセスは挟撃を目論んで分隊を派遣した。それを察知したレオニダスは300人のスパルタ兵と共に隘路に残り、勇敢に戦って玉砕した。この「テルモピュライの戦い」の物語は、史上稀にみる戦闘集団としてのスパルタのイメージを強固にするとともに、敗北という結果ではあるが、ペルシア戦争におけるギリシア方勝利への重大な貢献と見做され、古代より語り継がれてきた。テルモピュライの戦いは、戦闘単体としても、ペルシア戦争を構成する戦闘としても、ギリシア人のアイデンティティに深く刻み込まれたのである。その受容のされ方は、近年、記憶の歴史学や、ヘレニズム時代以降のギリシアの歴史研究が隆盛する中で注目を集めている。
    この文脈において、研究史上、十分注目されてこなかったテクストが存在する。それはディオドロス・シクロスの『歴史叢書』である。彼に関して特筆すべきは、上に示した一般に知られるテルモピュライの戦いとは全く異なる戦いの伝承を伝えていること、また、彼の企図した「人類共通の歴史(ἡ κοινὴ ἱστορία / αἱ κοιναὶ πράξεις)」の中でこの戦いの記述を残していることである。
    本報告では、ディオドロスがテルモピュライの戦いをどのようなものとして認識していたか、彼がこの戦いに下した評価と、『叢書』における「共時性」との関連から検討する。本稿の議論は、ディオドロスの『叢書』におけるテルモピュライの戦いの位置づけを明らかにするものであり、その成果をテルモピュライの戦いの受容史研究や、ペルシア戦争受容研究にフィードバックすることも意図している。



ユリウス=クラウディウス朝の皇帝・元老院関係
                                        ―名誉拒否の事例分析から―

逸見祐太(東京大学大学院)

    本報告では、帝政初期の元老院研究の立場から、「元老院にとって、顕彰はどのような意味を持っていたのか」という問いを投げかける。J.E.Lendon, Empire of Honour, Oxford, 1997は元老院による顕彰を、「名誉」 honorの量で他者を圧倒する皇帝が、元老院を通じて自己や他者に名誉を与える行為、だと定義した。だがこのような定義は、あくまで皇帝側からの理解であり、元老院にとって顕彰がどういった意義を持つのかが明らかにされていない。こうした先行研究の問題点を克服すべく、本報告ではLendonが元老院の顕彰のモデルケースとして用いたクラウディウス帝期、後52年のパッラスの顕彰決議を精査する(Tac. ann.12.53; Plin. ep. 7.29; 8.6)。この事例では解放奴隷パッラスは、プラエトル標章と褒賞金を受け取っておきながら、褒賞金の受け取りを拒否している。先行研究は、この事例をもっぱら解放奴隷の社会進出との関連で論じてきたが、本報告では顕彰決議文を読み直すことで、元老院がパッラスへの顕彰を成功させようと努めている点に目を転ずる。そして元老院の働きかけもむなしく、顕彰がパッラスによって拒否された後、元老院は不満ながらもそれを受け容れ、今度は皇帝の顕彰への積極性と、パッラスの皇帝への忠誠とを称える碑文の建立を定めるなど、新たな顕彰成立を画策している。元老院の、顕彰を積極的に行おうとする姿勢は、ティベリウス帝期の「グナエウス・ピソに関する元老院議決」 SC de Cn. Pisone Patreでも確認できる。仮にLendonに従って、皇帝が顕彰を名誉授受の手段として考えているとすれば、元老院はむしろ顕彰という行為そのものの成立を重視しているように思われる。この点を確認した後で、元老院が帝政理念の発信源として機能する上で、顕彰が重要だったという主張を行う。共和政の伝統を受け継ぎ、元首政のタテマエの拠り所でもある元老院にとって、皇帝やその臣下の顕彰は、皇帝支配の正当性のためのイデオロギーを展開する上で、不可欠であったのではないだろうか。



ポイティンガー図とアントニヌス旅程表
                  ―後期ローマ帝国時代における地理的情報の継受の態様―

南雲泰輔(山口大学講師)

    古代世界において「人間の住む世界(οἰκουμένη‎ / orbis terrarum)」は,まずはギリシア人によって哲学的・数学的・科学的な把握が試みられ,そこから固有の領域としての地誌学(χωρογραφία)・地理学(γεωγραφία)が形成された。これに対してローマ人は,「ギリシア人は星で地を量り,ローマ人は里程標で地を量った」(織田武雄『地図の歴史:世界篇』講談社現代新書,1974年,45頁)との言葉が示すごとく,実用的な地理的情報を重視していたこと,特にローマ街道網を基礎として空間を認識し,世界観を形作っていたことがしばしば指摘される。
    かかるローマ人の空間認識・世界観のあり方は,その表現形態として旅程表(itineraria)という特徴的な史料群を生み出した。3世紀に編纂されたとされるアントニヌス旅程表や4世紀初頭のブルディガラ旅程表などがその代表的な例であり,このローマ街道網と旅程表に立脚するローマ的世界観は,学説史上において「旅程表的伝統itinerary tradition」と称されている。さらに,後期ローマ帝国時代に原本が制作されたと考えられ,今日,ポイティンガー図(Tabula Peutingeriana, Codex Vindobonensis 324. オーストリア国立図書館所蔵)の名前で伝わる長大な巻物状の彩色写本もまた,「ローマ街道路線図」の図的表現(itineraria picta)として,ギリシア人の世界観とは異質な,ローマ人に固有の世界観たる「旅程表的伝統」に連なる典型的な図像資料として理解されてきた。
    ポイティンガー図と旅程表は,ともに宿駅名および宿駅間の距離を主要な構成要素として記載しており,両者がローマ街道の路線表示を主たる目的としていることは概ね疑いない。しかし,両者間で顕著に相違する構成要素として自然地形等の地理的情報があり,この点でポイティンガー図は「旅程表的伝統」から逸脱し,別の角度からの考察が必要とされる。本報告では,M. Rathmannの最近の研究を手掛かりに,ポイティンガー図とアントニヌス旅程表の比較を通じて,後期ローマ帝国時代における地理的情報の継受の態様について考察を試みる。




                 (所属などは発表時のものです。)



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