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○古代史研究会第21回大会

前6~5世紀アテナイにおけるnaval imageryの変遷とその意味

岡田泰介(高千穂大学)

    ペルシア戦争以降のアテナイの急激な台頭を軍事的に支えたのは海軍であったにもかかわらず、文学や美術などの文化表象においてはアルカイック期と同じくhoplitesのimageryが優越し、海軍が独自のimageryを持つことはほとんどなかったとするのが歴史学における通説的な見解である。有力な研究者たちによれば、前5世紀半ば以降、現実の軍事的重要性がhoplites軍から海軍へ移った後も、軍事的イデオロギーはhoplites中心のままであり、それはhoplite-centric military imageryとして文化的表象を支配し続けた。下層市民自身も、独自の海軍のimageryを生み出すことなく、貴族的なhoplitesイデオロギーを内在化していたとされる。ここでは、以上の学説を批判する立場から、海軍のimageryは存在し、しかも、それは下層民固有のものではなく、市民団全体によって創出・共有されたimageryであった、という仮説を提起する。
    幾何学様式期以来アテナイの陶器画に多く描かれてきた船の図像は、海軍の発展が本格化する前480年代を境に激減し、代わってテーセウスとポセイドン、ボレアスとオレイテュイア、aphlaston(船尾飾)を持つ神などの図像が同時期から突然増加する。美術史家たちの見解は、後者の図像群をペルシア戦争における海戦の勝利とそれ以降の海上覇権の表象とみなし、naval imageryがこのような間接表現に変化した理由を、アルカイック期に海軍を担ったエリートたちが、海軍のあらたな主役となった下層市民に抱いた忌避感に帰す点で、ほぼ一致している。だが、見落としてはならないのは、陶器画に新しいnaval imageryが登場した時期の前後に、テーセイオンや海戦の戦勝記念物などの海軍関係の公的モニュメントに同じimageryが現れることである。本報告では、陶器画におけるnaval imageryの変化を、海軍のあらたに創出された公的imageryがエリートによって共有されたという観点からとらえる可能性を探ってみたい。



共和政末期以降におけるギリシア哲学の影響
―古代ローマの別荘・庭園を手掛かりとして―

川本悠紀子(名古屋大学)

    共和政末期以降に書かれた西洋古典籍の中には、ギリシア哲学の思想的影響を受けて住宅の内部空間を計画したことがわかるものがある。そのような住宅空間は、「哲学議論を自宅の中で行うためのもの」として捉えられてきたが、なぜこのような空間が必要となったのか、そしてどのようなことが契機となって作られるようになったのかは考えられてこなかった。本発表では、これらの建築空間が作られたのはギリシア哲学の影響を受けたからであり、またその影響が生じたのは前88-86年のスッラによるアテナイの包囲と陥落にあるのではないかと論じる。
    本発表ではまず、ギリシア哲学の影響を受けた可能性が高い古代ローマ時代の人物を取り上げ、彼らが具体的にどの学派の哲学に傾倒し、どの哲学者に教育を受けていたのかも見ていく。キケロをはじめとする政治家だけではなく、ウェルギリウスやホラティウスをはじめとする文筆家もまたギリシア哲学を学んでいる、すなわち、ギリシア哲学は限られた人々の間だけではなく、より広いコミュニティの中で共有されていたということになるだろう。また、なかには学びにとどまらず、ギリシアの哲学学校に倣って別荘を作った者も存在する。これらの例をいくつか検討していく。次に、上述の人々に教育を受けた哲学者を見ていく。すると、前88年前後にギリシアから都市ローマに来たとされる者が多いと確認できる。このような事例から総合的に判断すると、①ギリシア哲学の影響は大きかったということ、②前88-86年の出来事がギリシアからローマへの人的流入の切っ掛けになった可能性が高いと理解できる。古代ローマにおける前一世紀頃のギリシアの影響の一つとして、「ギリシア哲学」の存在を見逃すことはできないのではないだろうか。



ネロ期におけるアウグストゥスをめぐる記憶の再構成

岡本幹生(京都大学)

    従来、アウグストゥスや帝政成立に関する研究では、いかに共和政から帝政へと移行したのかを検討するために、後1-3世紀までの後代の史料を多く参照しながら、アウグストゥス体制の実態に関して分析がなされてきた。しかし、実際には、アウグストゥスは皇帝という制度を創設したわけではなく、実質的な権力者として支配体制を築いていたことが近年強調されている。こうした点を踏まえ、彼の死後、アウグストゥスや彼の体制がいかに認識されたのか、すなわちのちの時代の各時期におけるアウグストゥスの記憶の伝承・利用・再構築について、考察の余地があるように思われる。そこで、本報告では、ネロ期を舞台としてこうした観点から考察を行っていく。
    ネロ期において、アウグストゥスの記憶は、皇帝のモデルとして、演説や貨幣の銘、祭典などでたびたび引き合いに出されていたことが確認されている。先行研究では、ネロの家庭教師であり、彼の顧問であったセネカの著作が注目されており、先行研究は、とりわけセネカの『アポコロキュントシス』や『寛恕について』という作品の叙述を分析し、当該期における政治エリートたちのアウグストゥス評価を探ってきた。本報告は、アウグストゥスだけでなく、アウグストゥスの記憶が想起されるなかで彼と関連づけられている人物の記憶にまで注目し、ネロ期におけるアウグストゥスの記憶の再構成をめぐるダイナミクスを検討する。検討対象は、主に、先行研究が扱ってきたセネカの政治パンフレットといえる『アポコロキュントシス』と『寛恕について』、さらにセネカが草稿を書き、ネロが行った演説である。『アポコロキュントシス』と『寛恕について』のいずれのアウグストゥス描写にも、都市ローマのアウグストゥス霊廟に掲げられた『神君アウグストゥスの業績録』の影響がすでに確認されている。そこで、彼以外の人物にも焦点を当て、これらの著作間でみられる影響関係や変化について、演説なども踏まえ、改めて検討していきたい。



ナジアンゾスのグレゴリオスにおける司教と帝国官吏との交渉
―「人間愛」の言説とローマ帝国のキリスト教化との関係についての一考察―

西村昌洋(龍谷大学)

    後期ローマ帝国・古代末期の研究において、「キリスト教化」をめぐる諸問題は重要な位置を占めている。ローマ帝国はなぜキリスト教化したのか、なにをもってキリスト教化とみなすのか、そして、それはどのような変化を引き起こしたのか、といった問いである。古代末期学の泰斗ピーター・ブラウンはこの点について、司教が世俗の権力者との交渉役として地方共同体の代表者となることで社会上のリーダーシップを確立したこと、そして、それにともなって、「人間愛」に関する言説、慈善や貧者を焦点とする言説が流布し、それを通してキリスト教的な価値観や社会イメージが浸透したことに注目して、キリスト教化という現象を読み解いた。本発表では、4世紀のギリシア教父の一人、ナジアンゾスのグレゴリオスの第17および第19講話の分析を通じて、このテーマへのアプローチを試みる。これら史料においてグレゴリオスは、地方都市ナジアンゾスにおいて納税問題をめぐって発生した紛争の調停に当たっており、その際、「人間愛」というキリスト教的な理念に訴えることで帝国官吏の説得を試みている。ローマ帝国の権力と交渉する際に、グレゴリオスはキリスト教的な言辞をもってそれに臨んでいるわけであるから、この事例は、教会人が帝国との交渉を引き受けることで社会のリーダーとなり、キリスト教的な言説がローマ帝国の社会に浸透していく、そのような現象の一例とみなすことができる。本発表は、これらの史料に焦点を当てることで、「ローマ帝国のキリスト教化」が具体的にどのようなものとして史料言説にあらわれてくるのかを検討する。同時に、異教徒側の史料との比較を通して、グレゴリオスの講話をローマ帝国の文脈の中に位置づけることで、キリスト教的な言説の拡大を通じた新しい社会モデルのローマ社会への浸透、というブラウンの見解についても検証することを目指す。



Roman Roads and Milestones of Rough Cilicia

Hamdi Şahin(イスタンブール大学)

    In Cilicia, the ancient roads for the most part run from south to north, climbing the natural incline of the terrain from the coast to the high country. The majority of Roman roads in the region follow pre-Roman routes, supplemented by long-distance routes that run parallel to the coastline and provide easier access to the region. Over centuries, the landscape of Cilicia therefore developed a road system determined by the terrain and the natural structure of the topography. To the north, the Cilician provinces were further delimited by the Taurus Mountains, with the result that supra-regional road connections into the Anatolian Highlands largely had to pass through valleys and across passes. Written sources and the milestones found by modern research hence reveal both regional and supra-regional construction programmes. For the planned volume CIL XVII, 5, 3 Miliaria Provinciarum Lyciae-Pamphyliae et Ciliciae field research was undertaken in Cilicia. As part of this research, new road sections and several milestones were discovered, while a number of old ones were re-discovered and a few previously published milestones re-autopsied. This lecture presents the newly discovered road sections and milestone inscriptions discovered during this fieldwork.




                 (所属などは発表時のものです。)



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